Interview

 
 

方力鈞

Fang Lijun
アートカテゴリ:  Painting, Installation

もはや現代アートは、中国現代アートの存在を抜きに語ることはできない。文化大革命後の開放から天安門事件を経て、中国ニュージェネレーションが、堰を切ったよう に、溢れ出る魂の叫びをアートの世界で表現し始めた。社会の矛盾をユーモアとアイロニーを絡めあわせるこのムーブメントは「シニカル・リアリズム」と呼ばれる。

方力鈞 (ファン・リジュン) はそのパイオニアとして世界に羽ばたく中国現代アートの若き旗手だ。





激動の時代を生き抜く


芸術の道を志したのはいつ頃からですか?

自分で「こうなろう」と決めた直接的なきっかけというのは思い浮かばないな。僕が子供の頃は文革の真っただ中で、父親は鉄道のエンジニアだったんだけど、罰則で田舎に更迭されたんだ。もちろん言われのない理由からだったけど、あの時代はそんなことは日常茶飯事だった。学校は閉鎖されていて、僕は同年代の子供たちからも「負け犬」の息子として鬱陶しがられていたんだ。その頃から社会の矛盾を感じていた。なぜなら、世間では僕の家族を「悪」として扱ったけど、本当はとても暖かい家庭だったからね。父親は僕を迫害や嫌がらせから守るために家に隠すようにした。家からほとんど一歩も出ることのない生活のなかで、できることというのは限られてくるよね。


はっきりと、本格的に絵を描きだしたと覚えているのは8、9歳の頃からだったと思う。父が北京に行ったときに、絵を描くのに必要な道具を全て揃えてくれたんだ。そのときからずっと絵を描いていると思うよ。文革が終わった後も、それぞれの分野で秀でた才能を持つ子供たちは自分の意志とは関係なく、カテゴリー別に分けられその分野を専門的に教育される、そういうシステムなんだ。


当時は他に選択の余地がなかったから現在の僕があるのかもね。アート以外には建築とかに興味を持っていたよ。文革の時代に少年期を過ごして、信じられないような辛い体験だったけど、今振り返ってみるとそれは僕の人生で貴重な意味を持っている。もしあの経験がなかったら、僕は僕の作品と出会っていないかもしれない。


天安門事件はファンさんにどのような影響を与えましたか?

天安門事件のとき、僕は中央美術学院の学生で北京にいたんだ。毎日、天安門に行って、そこに集まる人々と同じ空気を共有していた。学生や若者たちが自由を求めて集い、活気づいていたよ。同時に、緊張感が高まるとともに不安と失望でいっぱいにもなった。


同じ頃に「中国:アバンギャルドNo U Turn」と称したグループ展に参加していたんだけど、ある参加アーティストのインスタレーションがピストルを発砲するという過激なものだったので、体制側によって中止されてしまったんだ。


天安門は中国の歴史のなかでも、近代化に向けてとても重要な瞬間なんだよ。天安門の出来事は僕の幼い頃の記憶と結びつきを持っている。決して消えない記憶としてね。そしてその当時の出来事全ては僕の作品のテーマのベースにあると思う。その影響は、あの事件の後から徐々に少しずつゆっくりと僕の作品の中に現れる様になっていった。


当時のクラスメイトにはもうすでに頭角を顕している奴らもいたけど、僕はまだ試行錯誤の段階で、自分のスタイルを見つけるのに苦労していたんだ。今の坊主頭のスタイルからは反するけど、あるとき、髪の毛の長い人物を描いたときに突然気が付いたんだ、作品は僕自身の投影だということにね。





自由への渇望


いわゆる「シニカル・リアリズム」の誕生ですね?

その時にはまだ坊主頭のアイデアじゃなかったんだ。あれは同級生が持ってきた太行山の農民の写真を見た時から閃きを得て思いついたんだ。それでいろんな迷いから抜け出すことができた。それ以来あのキャラクターが僕の作品に登場するようになり、公の場でどんどん展示されるようになった。90年代の初期頃だったと思う。


天安門のすぐ後、有名なアーティストたちはこぞって海外に出てしまった。僕は学校を卒業して、北京郊外に移って制作活動を続けることにしたら、他のアーティストたちも移り住んできて小さなコミュニティができた。1989年から94年頃までぐらいまでそこにいたかな。そこではいろんなアーティストたちとの交流もあったし刺激にもなった。


中国の80年代というのは、アメリカ社会の60年代ぐらいの感覚だよね。中国で前世代の芸術家の仕事といえばほとんどが政府のためのもので、政治絡みのものばかりだったんだ。中国において「知的」であることは、政府にとっては「道具」を意味するのと等しい。コミュニティでのムーブメントというのは、中国のアートヒストリーの大きな転換期を象徴するものだと思う。そこから、みんながもっと自由に心の叫びを作品のなかに表現し始めたのだと思う。


やはり、あの坊主頭のキャラクターはあなた自身の投影なのですね。

僕だけでなく一般の人々を坊主頭の人物に投影させて、彼らの態度を表現していることもある。若いアーティストにとって自分のスタイルを発見することはとても重要な要素となるんだ。作品を見た人にドラマチックで強烈なインパクトを持ってもらうためにかなり研究したよ。坊主頭のキャラクターは、とても中国的なイメージを示していると思う。見た目のイメージだけでなく、成長の過程や違う世界との接点の探索、内面の精神性とか、坊主頭が意味することはたくさんあるんだ。(自分の頭を撫でながら)僕も成長の段階だから、未だに坊主頭のままなんだ(笑)





変化し続けるということ


コミュニティに対する政府の反応は?

知識人の間では、好意的に受け入れられていたけど、一般の人にはわからない。変わり者の集団と思われていたかもしれない。意外に思うかもしれないけど、政府から何か弾圧や嫌がらせを受けたことはなかったね。特に暴動を起こすとか、暴れるとかではなかったから見て見ぬ振りをされていたのかもしれないけど。


当時はとても貧乏で、20元 (約280円) あったら、ラーメンひと箱買えるのに…とか、いつも腹ぺこで飢えていたよ (笑) 。1992年頃まで、絵を描くことに集中していて、ほとんど他に仕事しなかった。その絵もほとんど売れてなかったからね、どうやって飢えを凌いでいたのかは覚えてないけど (笑) 。


1993年にニューヨークタイムズマガジンの表紙を飾って「シニカル・リアリズム」紹介されるなんて、その頃は夢にも思わなかったね。僕の作品を高く評価してくれた唯ひとりの美術評論家、栗憲庭のひと言で僕の人生は180度変わったんだ。


他のアジア諸国に比べて中国の現代アートに人気があるのはなぜだと思いますか?

シニカル・リアリズムは今の中国現代アートの主流といわれているけど、中国の社会主義や共産主義に対してのアイロニーを含んでいるよね。それにポップやパンクっぽいユーモアを混ぜたりして。その陰と陽の組み合わせが、西洋の直接的な表現とは違っていて面白がられているのかもね。もしくは、僕たち中国人の歴史的バックグラウンドの特殊性が人気に加勢しているかもしれない。


10年前と比べて、中国の芸術に対する考え方に変化はありますか?

激変したと思うね。10年前のアーティストには「希望」という言葉なんてなかったけど、今ではアーティストはお金を稼げる職業のひとつになったんだからね。海外においての中国現代アートの人気が中国国内の状況をも変化させたんだ。


僕の場合は、友人の批評家によって海外の有力なアートジャーナリストに紹介されたりしたことがきっかけで、海外で高く評価されるようになった。そのおかげで展覧会や国際的なアートイベントに招待されるようになり、作品も売れるようになった。その影響やオリンッピックなど、中国本土自体が国際化の大きな変化の過程に突入していったことなど、芸術面だけでなく他の教育システムも大きく近代化していっていると思うよ。


レストランの経営や映画出演など、ご自身のアート以外でも活躍されていますね。

アーティストというものは、いつも同じ場所や状況で留まっていると成長しないと思うから。自分のフィールド以外のところでチャレンジすることはいろんな意味で刺激や発見に繋がるんだ。面白そうなものがあれば進出したいといつも思ってるよ。




interview: Sai Morikawa

photo: Sei Koike