Interview

 
 
Place: New York

実存への根本的な問い

Joachim Trier
アートカテゴリ:  Film, Movie

たとえ同じ出来事を共有したとしても、その捉え方は他と完全に一致することはない。また人は、他の中ではそれぞれに違う存在として生き、そういった捉え方の違いが人のあり方にも影響を及ぼす。それはある意味、私たちは他の記憶によって作られるということであり、そうやって他の記憶が変化することで私たち自身も変化し続けていくのだろう。第68回カンヌ映画祭でワールドプレミアを迎えた、ノルウェイ人映画作家ヨアキム・トリアーの監督第3作目で、初の英語作品『母の残像(原題:Louder Than Bombs)』では、家族の中心的存在だった母を失った家族の姿を追っていく 。

 

国際的に活躍する戦場カメラマンのイザベル(イザベル・ユペール)は、戦場ではなく、自宅から近い場所で交通事故に遭って死んだ。事故から3年が経った今でも、残された家族には母の死の余韻がまとわりつき、父ジーン(ガブリエル・バーン)、長男ジョナ(ジェシー・アイゼンバーグ)、次男コンラッド(デヴィン・ドルイド)は、新しい人生に踏み込めずにいた。しかしイザベルの同僚リチャード(デヴィッド・ストラザーン)の支えあって、彼女の回顧展が開催されることになり、家族はイザベルが所有していた写真に目を通していくのだが、彼らはその中で、知っていたはずのイザベルという女性の別の顔に出会ってしまうのだった。

 

『リプライズ』と『オスロ、8月31日』のように、トリアー氏が映画を通して常に探求し続けるのは、実存への問い。『母の残像』では、死を見つめ、また記憶がどう人間を構築するのか、そしてその記憶が揺るがされたときどうなってしまうかを考察する。ジーン、ジョナ、そしてコンラッドが、イザベルを妻でも母でもなく、1人の人間として受け止めるとき、彼ら家族に新しい絆が芽生える。人が宇宙を理解しようとすることと同じように、トリアー氏が作品を通して問う疑問には我々は確実な答えは見つけられないかもしれない。しかし、美しくも厳しく、そして感動的なこの世界の核心に、彼は手を伸ばし続ける。

 

 

COOLは、ニューヨークを訪れたヨアキム・トリアーに、新作『母の残像』について話を聞いた。

 

 

「現代社会は複雑だ」

 

アメリカの死生観はきっとノルウェイのものとは違うと思いますが、今回アメリカを舞台にするにあたって意識していたことはありますか?

死生観の違いについてはあまり考えなかったかな。僕が抱く死生観と、ニューヨークの友人のものとではそんなに違いはないと思っていたから。僕は神の存在は信じていないし、今生きているこの世界だけしか僕らにはないと思っている。そう考えると不安にもなるし、同時に可笑しくも悲しかったりもする。今回の作品は、まだ母の存在をどこかに感じながらも、新しい女性を見つけようとしている男たちの物語。またその状況に置かれているからこそ、個人として、そして家族としても、彼らが本当は何者であるかが暴かれていく。だから死だけではなく、各世代の男性が段階を経ているさまも描いているんだ。

 

母の死は家族にとってはとてもつらいものです。それほどまでに私たちは母とのつながりが強いということだと思います。どうして母を亡くした家族を描こうと思われたのですか?

まず親というものを描いてみたいと思っていて、それが今回はみんなの憧れの戦場カメラマンの母親になったんだ。イザベルは多くの人から賞賛を受け、世界的にも有名で、テレビにも出ていたし、写真がニューヨーク・タイムズ紙にも掲載されているような人だけれど、そういった部分だけではなく、ある種彼女を批判するような描き方もある。また彼女の母としてのあり方や、家族を見捨てたと取れる死に方に、残された家族は苦悩しているんだけど、一連の出来事に対しての思いはみんな違っていてね。例えばジェシー・アイゼンバーグが扮した長男にとって、母はずっと憧れの存在だった。だからこそ彼はなかなか母の死を乗り越えられない。ところが父と次男は、長男とは全く異なるプロセスを辿る。イザベルがどんな人間だったのか、どんな生き方をしていたのかという謎を2人は知り始めるから。

 

イザベルは戦場カメラマンですが、彼女は戦場ではなく日常生活の中で死を迎えます。そのことが残された家族を困惑さているように思いました。どこか狐につままれたような。どうして彼女を戦場カメラマンにしたのですか?

ある意味、この映画は戦場から帰還した人の物語でもあるんだ。けれど兵士の代わりに、芸術的センスのある人を描きたかった。もちろん彼女は戦場での体験から酷いトラウマを抱えているんだけど。戦場カメラマンはとても興味深い職業でね。ジェームズ・ナクトウェイのドキュメンタリーを観たり、ドン・マッカランの素晴らしい自伝を読んだり、さらには戦場カメラマンや戦場ジャーナリストにも会うという素晴らしい体験もしたよ。そのうちの1人が「これは無私的な仕事だけれど、同時に利己的でもある」と言っていた。きっと戦場に行って仕事をする人の中には、人の役に立ちたい人もいれば、危機的状況に中毒になっている人も多いから。きっと周りの人はつらいだろうね。だからこそ面白いキャラクターが描けると思ったんだ。

 

この映画では、ある人の死を多角的に見ていきます。このアイデアは何にインスパイアされたのですか?

共同で脚本を手掛けるエスキル・フォクトと僕は、キャラクターのことや物語の中でのさまざまな瞬間など、1年間とことん話し合ってね。そこから物語を作り上げていったんだ。今回僕たちは伝統的な見せ方や語り口にも興味があったし、ナレーションや、楽しくて遊び心があって、観客に音楽的な刺激を与えるような要素まで、いろんなものに挑戦してこういうスタイルにたどり着いたんだ。

 

残された3人の家族は、これからどうやって生きていくのかを模索します。この映画において、あなたの実存への興味はどのように作用していますか?

僕のすべての映画では実存的な問いが含まれていると言っていいだろうね。どうして人は選択をしながら生きていくのか、人は他に対してどういった責任があるのか、といったことなんだけど。そういうことに僕はとても興味があるから。けれどそれを描くにはまず面白い物語がないといけない。今回の映画では、今まで言ったことに加え、世の中にどう思われたいかという問題も扱っていてね。コンラッドの場合でいうと、彼はゲームが好きで、ゲームの中では男にも女にもなれる。彼は世の中をちょっと変わった観点で見ているんだ。また母イザベルは戦場に赴き、カメラで戦争の悲惨さを撮り続けてきたけれど、コンラッドは戦争ゲームが好きなんだ。現代社会は複雑だよ。いろんなものが繋がりを持たず、バラバラになっているからね。そんな社会状況を反映したかったんだ。

 

『オスロ、8月31日』は、さまざまな人が、これまでの人生や、周りにいた人、オスロという街などの思い出を語るところから始まります。この映画の中でも残された家族は、それぞれにイザベルとの思い出を回想します。記憶のどういったところに心を動かされますか?

記憶には子供の頃からとても興味があってね。僕らは記憶によって形成されているけれど、記憶は変わりやすいもの。常に変化していて、流動的なんだ。今回の映画の中でもその変わりやすさを描いているシーンがある。コンラッドは母親とかくれんぼうをして遊んでいたことを思い出すけれど、思い出しているうちに、母は知らないふりをして遊んでくれていたことに気がつくんだ。記憶はそういうもので、時間が経つと、体験したことも、自分自身でさえも新しく塗り替えられていく。そのときどきで自分自身の捉え方も変わるからこそ、自分のことはよくわからないんだ。

 

映画も、ある種記憶を再構築する側面があると思いませんか?

映画はまさに記録装置だよ。そういえば、10年経ってみて僕の長編初監督作品『リプライズ』を観る機会があったんだ。オスロのシネマチケット(Cinemateket)に招待してもらって上映したんだけど。出演者もみんな来てくれてね。みんなやはり年をとってたよ。僕ももちろん映画作家として年をとったしね。あの映画は今でも気に入っているんだ。誇りにも思っている。俳優たちの演技も好きだから。けれど映画はやはりタイムカプセルで、上映中は忘れかけていたことを思い出す旅をしているようだった。自分の映画を何度も観たりすることはないけれど、あれはなかなかない経験だったよ。

 

撮影当時に戻ったような気分になりましたか?

あのときに戻ったような気分になったかはわからないけれど、映画にはその当時の体験した感覚が詰め込まれていると思う。映画は体験するものだからね。それを強調したい。だから記憶と同じように、映画を観て、過去の体験をちょっとだけまた味見することができたかな。

 

 

何か作りたいと思ったら、何もわからないまま表現してみるんだ

 

あなたの作品は、最も純粋で、最も直感的なものを常に描いているように思います。『リプライズ』は運命というものを模索し、『オスロ、8月31日』では記憶と存在、『母の残像』では、それらの要素に加え、死をも探求します。こういったことは子供が不思議に思うことだと思いますし、私たちが人生を通して問い続けることでもあります。

恥ずかしくてなかなか聞けない、我々の存在そのものを問うかのような純粋な疑問は、本当は美しいんだよ。だけど時間が経つと、感受性は鈍くなってしまうからね。ちょっと美しさについて話をするとね。普段何がテイストが良くて悪いということは文化によって判断されるけれど、子供はそれには左右されない。彼らは純粋なものに反応するんだ。そしてその子供たちの反応が大事な何かに気づかせてくれたりする。

 

アメリカ人撮影監督オーウェン・ロイズマンが、『マスターズ・オブ・ライト(Masters of Light)』という本の中で、ダイニングテーブルに娘と座っていたときのことを書いているんだ。「パパ見て、きれいだね」と窓辺にあったコカ・コーラの空き瓶を指して娘が言ったって。彼自身もその瓶を見たら、陽の光がそれに差していてきれいだったそうだよ。娘は単純にガラス瓶に光が差し込んでいる光景がきれいだと感じただけなんだけど、娘がいなかったらロイズマン氏はその美しさには到底気づけていなかった。だから単純なことではあるけれど、単純なものに美しさがあるんだ。そして映画は、僕たちにキャラクターの視点を通して、純粋で美しいものに気づかせてくれるんだよ。

 

あなたの前2作はオスロが舞台で、親密さやノスタルジーが感じられました。今回の舞台はニューヨークで、その新しい環境がどうあなたの映画作りに影響したのか教えていただけますか?

僕の映画を自伝的なものとして見たいという願望が巷にあってね。たしかに自伝的な映画ではあるけれど、人が思っている以上に僕の自伝的要素は直接的ではないんだ。世の中では現在、映画の中のことがリアルであるかどうかにものすごく関心が寄せられている気がするよ。

 

たしかに僕はニューヨーク育ちではないけれど、今回もオスロを舞台にした物語と同様に、本当にニューヨークで生活していると感じさせるキャラクターを作ることができたと思うし、不自然なところはないよ。それでももちろんオスロで撮影するのとは違うけれど。ノルウェイで作られた作品ではないから、今までの私的な要素が明らかに薄くなった作品になっていると言う人も中にはいる。ただ、私的であることを意識して作品を作ることに僕は賛成できないな。何か作りたいと思ったら、何もわからないまま表現してみるんだ。それが何なのかは、うんと時間が経たないとわからない。僕にとってはこの映画も私的な作品だよ。

 

現代の家族はいろんなことを共有する傾向にありますが、親と子供であっても共有されないものがあっていいのではと思います。そしてすべてを共有しなくていいという気配りのようなものがこの映画にはあり、そこに興味を持ちました。母は秘密を抱えたまま亡くなリますから。またある意味、子供たちは母親が亡くなるまで彼らがどのように生きて行きたいのか決められなかったように思いました。

Joachim Trier © Taiyo Okamoto

たとえ家族であっても、同じ家庭の中で暮らしていても、互いのスペースは尊重しなくてはいけない。それからこれはつらいことだけれど、人には他人を孤独から救えないこともあるんだ。だから世の中に憂鬱な空気が流れることもある。生きていれば、途方に暮れて、孤独に震える瞬間があるけれど、自分自身でさえ孤独から救えないのに、人はなぜか誰かを救いたいと思ってしまうものなんだ。説明しにくいけれど、それが人間ってやつでね。こういったことは親子間ではなかなか話しもされないのが現実だけれど、結局はみんな同じ人間。この映画ではそういったことも描いていてね。誰にでも他人が触れられない部分があって、いつかはそこに届く可能性を信じながら、届きたいと願う美しさに気づいて欲しかったんだ。

 

 

テキスト&インタビュー by 岡本太陽

Photo courtesy of The Orchard

 

『母の残像』11月26日(土)より日本公開予定