Interview

 
 
Place: New York

文化は生きているからこそ

Gabriel Mascaro
アートカテゴリ:  Film, Movie

人の思考が、意識的にあるいは無意識的に変わり続けるように、環境の変化もまた自然の摂理。だからたとえ思い描いた通りに世界が変わらなくとも、感動の芽はかならずどこかで息をしている。第72回ヴェネチア国際映画祭で初披露された、ブラジル人映画作家ガブリエル・マスカロ長編第2作『Neon Bull(原題:Boi Neon)』は、ブラジルの北東部が舞台。そこでは近年の目覚ましい経済成長により、革新と伝統が肩を並べて生きている。

 

ブラジル北東部では、馬にまたがった2人の男たちが牛を引き倒す、ヴァケジャーダと呼ばれるロデオ文化が昔から愛されてきた。埃まみれの職場環境で牛の世話をしているのが、主人公イレマール(フリアーノ・カツァッレ)。しかし、その土地で広まる繊維工業の波に影響され、実はイレマールの頭の中はファッションデザインという新しい夢でいっぱい。周りの仕事仲間は皆、牛の世話よりもより良いステータスである、馬の世話を目標にして生きているが、それをよそにイレマールだけはミシンから生まれる夢を追い続けている。

 

マスカロ氏の作品ではしばしば、野心や環境の変化が与える人や社会への影響がテーマとして描かれる。たとえば今回の『Neon Bull』では、クローズアップショットをほとんど用いないことで、変わりゆく環境に生きる人間や動物の肉体を見事に映し出している。だからこそこの映画では肉体と環境の官能的で誠実なコミュニケーションが感じられるのだ。環境が変わり続けるということは、それに準ずるように人間の精神や肉体の反応も変わり続けるということ。マスカロ氏はそれを肯定も否定もせずただ差し出すことで、作品に得も言えぬ引力を与えている。

 

 

第45回ニュー・ディレクターズ/ニュー・フィルムズでの『Neon Bull』上映のためニューヨークを訪れたガブリエル・マスカロ氏に話を聞いた。

 

経済的急成長は必ず

不透明さや矛盾を生み出してしまう

 

ブラジル北東部の経済的急成長がこの映画の背景にありますが、その地域はどのように変化して行きましたか?

あの土地は乾いた土地のせいで農作物も育たず、人は食べ物に飢えていたから、文学や映画、また絵画などでずっと去るべき場所として描かれていてね。だからそこから他の土地へ渡って行った人たちも多いんだ。そして残った人たちがブラジルにずっと古くからある伝統を守ってきた。そういう背景があるからどこかノスタルジックな土地として一般的に知られているんだ。そこで僕たちがこの映画でやりたかったことは、昔ながらのものが生き続け、同時に今まさに変わり続けている場所としてあの土地を描くこと。もちろん映画の中に出てくるような職業や伝統、男臭い精神もそこにはまだあるけれど、近年の経済的変化がそれらとは全く違うものを運んできた。なんとこの経済や産業の発展が、今まで困難だった農業を発展させているんだ。

 

たとえば近年の中国映画のように、急速な経済的発展やグローバル化の影響を描いた映画は、社会に警笛を鳴らすようなニュアンスを含んでいます。しかし『Neon Bull』はそれらを全く違う角度から見ていますね。

僕はノスタルジックな人間ではないから、今起こっていることをもっと広い視野で見つめているんだ。まず過去のほうが良かったと決めつけたくなかった。それよりも経済的発展の中にある先の見えない感覚や、現代社会における矛盾、そしてキャラクターがそれらと向き合っている姿を見せたかった。そういった現代性はブラジルだけの問題じゃない。中国やインドをはじめ、たくさんの地域でも起こっているし、経済的急成長は必ず不透明さや矛盾を生み出してしまうんだ。

 

どうしてヴァケジャーダというロデオ文化を変化の象徴として見せようと思われたのですか?

僕の田舎の友人たちのほとんどは、僕の母校である海岸に近い学校に通っていてね。彼らはヴァケジャーダにハマっていたよ。だから当時はヴァケジャーダが身近にあったし、友人たちとヴァケジャーダを見に行っては牛を眺めていたんだ。それから何年も後に、偶然にもヴァケジャーダを観る機会があってね。「ヴァケジャーダもすっかり変わってしまった」と思ったよ。ヴァケジャーダ文化もまた、その地域の変化と同時に、より華々しいエンターテイメントへと変わっていたからね。だから僕は、サイバー資本主義がものすごく伝統的なものにまで影響を与えているという事実も映画の中に反映させたかったんだ。

 

『Neon Bull』も長編劇映画第1作目の『August Winds』も“野心”がテーマの1つとして描かれます。あなたの物語にとって野心は重要な要素ですか?

僕が描きたかったのは、あの土地に残っている人たちなんだけど、彼らの人間関係から生活習慣、また生活空間までも以前とは随分変わってしまっているんだ。僕は自分が全く知らないものに興味があってね。たとえ初めて知る世界でも、その中で自分がどういう風に生きているのかを想像してみる。だから僕がファッションデザイナーになりたいカウボーイだったらどうするか、大型トラックを運転する母親だったらどうするかと想像してみるんだ。これはキャラクターに対して愛情や敬意を捧げるエクササイズかもしれないね。だからこそキャラクターたちは自分たちのことをジャッジしない。僕は彼らを見下したりしないからね。キャラクターは不満を漏らすこともないし、彼らはただ経験をして変化して行っているだけなんだから。

 

 

キャラクターたちは体の拡張、

つまり個人の可能性を感じ取っている

 

イレマールの仕事は牛の世話をするという埃まみれになる肉体労働です。けれど彼はその仕事をしながらファッションデザインを志している。この映画ではその2つが非常に鮮やかな対比を成しています。どうしてこの全く違う2つのアイデアを1人の人間の中で見せたいと思われたのでしょうか?

脚本のリサーチ段階で、実際に牛の尻尾を整える仕事をしながら繊維業界で働いている人に出会ったんだ。「これが映画の主人公だ!」と思ったよ。この映画は経済的変化から新しく生まれる人間関係を描いていてね。そこで僕が着目したのは、ポップカルチャーのグローバル化という新要素が、人と現代性との関わり合い方を変えること。過去に縛られるわけではなくね。『Neon Bull』のキャラクターたちは人が持つカウボーイのイメージを壊そうとしているんだ。彼らは矛盾にぶつかっているし、そんな中でいろんな角度から夢を見ようとしている。「カウボーイ映画だけど、主人公はファションデザイナーになりたいのか、じゃあ彼はゲイだね」と思う人もいるかもしれない。そういうステレオタイプを持つのは簡単だけれど、この映画はそれとは全く違う方向に僕らを導いて行くんだ。

 

あなたはこの映画で、男女の役割に対する既成概念に異議を唱えていますね。現在ブラジルでは性はどのように受け止められていますか?

歴史的に見てもブラジルはとても開放的で先進的な国だよ。けれど近年、ブラジルは性に関して今まで培ってきたイメージを失いつつある。保守的な宗教活動が人々に多大な影響を与え、それが国の政策をも変えているからね。それにブラジルはやはり男性優位の国なんだ。この世界自体がそうだけど。けれど僕はそれが単に覆えればいいとは思っていないんだ。映画の始まりで主人公は自分の性をはっきりさせないけれど、現代社会や現代のゲイカルチャーにとって重要なのは、性のアイデンティティをはっきりと提示しないことだと思う 。だから性を逆転させて女性的な男性や男性的な女性を描けばいいわけではないんだ。僕はそれ以上のものを描きたかった。キャラクターたちは体の拡張、つまり個人の可能性を感じ取っている。完全なる男社会であるカウボーイ文化の中でそれを描けば、さらなる可能性を見出すことができるかもしれないと思ったんだ。

 

最後のセックスシーンは、あなたが性に関してやりたかったことの真髄のようでした。

あのセックスは、彼らの人生における単なる1つの経験なんだ。またあのシーンでは、主導権を握るのは女性で、彼女は見られるという行為さえも自分で選んだ。そして最も重要なのは、男女が交わるあのシーンでさえもストレートかゲイかは全く提示しないこと。男女間のセックスの後も、主人公のセクシャリティは曖昧なままだからね。

 

 

僕らは日々変わりながら生きている

 

ヴァケジャーダは主人と使いの者を演じて行う競技ですが、ブラジルの社会的ヒエラルキーのメタファーのようでもありますね。

僕は体に宿るヒエラルキーを見せたいと思っていてね。この映画を見ると、牛と馬の世界を隔てる境界線がはっきりわかるし、それは馬の世話をしている人たちと牛の世話をしている人たちの間にもあるんだ。そしてそのことは体にも大きな影響を及ぼしている。ヴァケジャーダは牛を引き倒さないといけないため、体にはとても暴力的な影響を及ぼす。また面白いのは、それと同時にカウボーイと動物との間には性的な関係性すら生まれること。だから1つの体の中に暴力と快楽が同時に宿っているということを意味しているんだ。一緒に存在すると危険のリスクがあると気付きながらも、どうして暴力と快楽が人や動物の体にしばしば共存しているだろうと考えるよ。

 

体におけるヒエラルキーとはすごく興味深いですが、そういえば『Neon Bull』同様に、あなたの過去のドキュメンタリー作品『High Rise』でもヒエラルキーがテーマとして扱われていましたね。

体は力と場所に強く影響されると思っていてね。たとえば『High Rise』では、高い場所から世界を見ると、その場所と物理的視点がイデオロギー的視点を妨げる事実を明らかにしている。それが社会との関係にどんな影響を与えるのか?社会学的な「参加」という概念は、他と直接関わること。だから他と触れ合い意見を聞くことが参加するということなんだ。ところが上流階級はびっくりする考えを持っていてね。彼らは高い場所から全てを見聞きしているから、ちゃんと社会と関わっていると思い込んでいるんだ。そして彼らは実際に誰よりも社会参加をしていると信じている。彼らには地理や建物との関わりはあるかもしれないけれどね。だから僕はその人類としての発展が、ヒエラルキーや社会参加にどう影響を与えているかをあの映画であぶり出したんだ。

 

今年の夏にブラジルでオリンピックが開かれるため、北東部だけでなく、国全体が過渡期にある印象を受けます。そしてそれ以降もきっと劇的な変化は続いていくはずです。「変化」についてどういう考えをお持ちですか?

生きるということは変化するということ。僕らは毎日変化しているからね。自分が望んだ変化であれ、強いられた変化であれ、僕らは日々変わりながら生きている。今回の僕の映画では、自らが選んだ変化と強いられた変化の関わりを見つけようとしているんだ。その2つの変化とどう向き合うか、どう受け止めるかは、どの国や文化でも現在大きな課題になっているからね。実は“ルーツ”という考えは僕は好きじゃないんだ。なぜなら根っこ以外のものがあって初めて木と呼べるものになるからね。その木には葉があり、葉は時が経てば散ってしまう。だからきっと文化もそれと同じで生きているものなんだと思う。保存するものではないよ。結局保存なんてできないしね。だから文化は博物館や美術館として存在するものなんかではなく、時とともに変わりゆくものなんだ。

 

 

テキスト、インタビュー&ポートレイト写真 by 岡本太陽

Film Stills Courtesy of Kino Lorber

 

『Neon Bull』予告編