Interview

 
 
Place: New York

脱構築の達人

Jia Zhangke
アートカテゴリ:  Film, Movie

1997年の長編デビュー以来、映画監督ジャ・ジャンクーは『青の稲妻』『長江哀歌』『罪の手ざわり』といった現代の中国社会を映した素晴らしい作品を世に送り出してきた。去年のカンヌ国際映画祭で初披露された待望の新作『山河ノスタルジア』は、時を駆け抜ける一風変わった作風。この作品でジャ・ジャンクーは、1999年、2014年、そして2025年という3つの時代に生きる登場人物の、歴史や伝統の欠如からもたらされる苦しみを描き出す。経済や環境の劇的な変化の過程で孤独は育ち、夢は色あせていく。それでもこの映画はそんな中にさえもかすかな希望を見出そうとする。

 

 

歴史や伝統文化と再びつながる

 

 

この物語は時間だけでなく空間をも超えます。あなたの生まれ故郷であるフェンヤンから始まり、オーストラリアにまで物語の舞台は広がっていきますね。

中国人ならきっと多くの人が移住の経験があります。たとえ田舎に生まれ育っても、仕事のため、または成功を手にしたため、人は都会へと移り住んで行きます。海外へ移住する人も今ではもう珍しくありません。そこで今回それを映画のテーマにしました。そしてそのテーマを描くにあたって、まず私の生まれ故郷であるフェンヤンから始めたいと思ったのです。その小さな町から大都市へ、大都市から国外へと舞台は移って行きます。

 

フェンヤンはどのような町ですか?

私の故郷フェンヤンは、大都市や田舎の小さな村々とも異なる立ち位置にあるとても興味深い町です。大都市ほど大きくもなく、農村ほど小さくもありません。そこで大都市からフェンヤンへと情報が伝わり、またフェンヤンから村々へと情報が伝わって行く。逆に村々からフェンヤンに、フェンヤンから大都市に情報が流れて行く。そのようにある種橋のような立場にあった町で育ったことが、大人になる過程で常に都会の豊かな暮らしばかりを見ていた私に大きな影響を与えました。そうやって村々からの情報にも自然と触れられたからこそ、労働者の生活に興味を抱くようになり、彼らに対して敬意を払うようにもなり、また彼らに感謝の気持ちを抱くことにつながったと感じています。

 

フェンヤンではどのように過ごされていましたか?

私がフェンヤンで育ったのは1970年代。7、8家族が住む共同住宅で暮らしていました。一緒に暮らしていた家族の中には労働者や軍人もいましたし、私の父は教師で、母は政府が所有する店のレジとして働いていました。ですから、ある意味その共同住宅の中だけで小さな世界が作られていたわけです。

 

とても鮮明に覚えていることがあります。1976年、私はまだ随分と幼い子供でしたが、当時の中国はまだ文化大革命の中にありました。ある日学校へ行くと、何百人もの人々が誰かに暴行を加えていました。あれはきっと批判闘争か何かだったのだろうと思います。あの記憶は今でもなお脳裏に焼きついて離れません。この目で階級闘争を目撃したのですから。恐ろしい暴力を。あの光景は私の心の奥深くにまで衝撃を与えました。

 

また、子供の頃よくお腹が空いていたのも覚えています。食べ物があまりありませんでしたからね。娯楽なんかもありませんでした。しかし1978年の改革開放や外資の流入が開始されたことによって、食べ物をお腹いっぱい食べられるようになり、州庁による文化に対する抑制も緩和されました。

 

文化への扉が開いたことはどういう意味を持ちましたか?

私たち若者にポップカルチャーへの扉が開かれました。香港や台湾、その他外国の映画が観られるようになり、武術や犯罪ものなど、それまで娯楽として決して観られることのなかった作品が選択肢に並ぶようになりました。まず、文化大革命時代には時代劇は禁止されていました。ですから武術映画を観られたときの興奮は今でも忘れられません。それに共産主義の下では無神論が推奨されていましたから、キン・フーの映画に出てくるような中国の伝統文化や禅仏教には全く教養がありませんでしたから、もちろん理解もできませんでした。またあの頃多くの哲学書も輸入され、サルトルやニーチェ、フロイトなどの本を初めて購入しました。

 

当時の中国の若者は、2つのものの間にあった溝を埋めることができました。その一方は西洋。冷戦のせいで中国は西洋世界から切り離されていましたから。そしてもう一方は自国の歴史や伝統文化と再びつながることができたこと。文化大革命があったので、過去に対する憧れがずっとありました。

 

当時の若者は何を求めていましたか?

あの頃に中学生か高校生だった世代にとってとても印象に残っていることは、中国が現代的な国になっていく過程を目のあたりにすることができたこと。現代性は当時の中国の大きなテーマで、自由で民主主義的な暮らしをするためには、それが必要なことだと誰もが思っていました。1989年6月(天安門事件)は、私たち世代の心に深い傷を負わせました。あのとき私は高校を卒業したばかりで、大学受験に失敗していました。そこで「将来何をしたいのか?」と真剣に自分自身に問いかけたのです。そして私は自分自身を表現する方法を探さなくてはと気づきました。

 

それがあなたを映画へと導いたのですか?

私は自分を取り巻いていた中国社会を観察していました。そしてそれを語るに相応しい芸術媒体を見つけたいと思っていました。小説も書いていましたし、画家になるためにタイにも行きました。創作の分野で自分を表現する手段を探していたのです。1991年、私はタイにいました。そこで偶然にもチェン・カイコーの『黄色い大地』を観ました。そのとき映画も自分を表現する1つの方法になるのだと目から鱗が落ちました。そうやって映画作家になろうと決めましたが、当時中国で映画作家になるには北京映画学院に入るしかありませんでした。そこで私は学院で映画論を学んだのです。

 

また、映画を作るためには政府の持つ16の映画製作スタジオのどれかと契約する必要がありましたし、社会の現実を映す映画は作ってはいけないことになっていました。そこで私はインディペンデント映画の道に進むのです。幸運にも周りにインディペンデント映画を作ってみたいという友人やクラスメイトがいたので、彼らと映画製作グループを作りました。そして短編映画を3本、長編劇映画を2本、ドキュメンタリー映画を1本撮りました。

 

私たちが作ったものの中に『小山の帰郷』という大切な作品があります。田舎出身の人々が都会へ行き、成長を遂げる中国経済の中で彼らは劇的に変化していきます。あの頃に政府が所有する映画製作スタジオ以外で映画を作りたいと思うようになった気がします。国民が直面している現実を映した映画をどうしても撮りたかったのです。『小山の帰郷』は1997年に香港インディペンデント短編映画ビデオ賞の最高賞を受賞しました。それがあって98年に初めて出資提供された長編映画『一瞬の夢』を撮りました。ですから『小山の帰郷』がなければ、みなさんが知る私の歴史もなかったはずです。それ以来ずっと映画を作っています。

 

 

文化は曖昧な概念ではなく、日々の暮らしの中から生まれていく

 

『山河ノスタルジア』の最初の物語は、1999年のフェンヤンで始まります。当時のフェンヤンにあった空気はどのようなものでしたか?

新しい時代の到来を感じられる年でした。また、当時の経済成長は人の生き方を変えていました。あのときみんなが考えていたのは金儲けだけでしたから。それにソーシャルメディアがコミュニケーションにも大きな変化をもたらしました。中国ではインターネットや携帯電話、高速道路のような公共施設や個人所有の車などが世に現れ始めていた頃でした。それらが人の交流の仕方を根本的に変えてしまいました。ただ、そういったソーシャルメディアやテクノロジーがあったとしても、人の間にはまだぬくもりが残っていた気がします。それが変わってしまったのはそこからで、ぬくもりや人々のつながりは徐々に軽視されてしまうようになりました。2014年の物語の中で描いていますが、他とのつながり方や感情との向き合い方が変わり、人はより孤独になってしまったのです。

 

1999年の物語の中で、飛行機が突然墜落するシーンがとても印象的でした。あのシーンについて教えてください。

人生でどんなことが起こるか大体は予測が付くでしょう。たとえばこういうことが起こりますよね。初恋、家族を持つ、出産、老い、そして家族の病気や死。そういったことは絶対に起こります。必然です。しかしそれだけが人生ではない。何の前ぶれもなく起こってしまうこともあります、何の理由も説明すらなく。ですからあの飛行機の墜落は、人の関係性を根本的に変えてしまう出来事は、事故のように突然起こりうることを象徴しているのです。予測できない出来事も結局は人生の輪の中にありますから、それらともうまくやっていく術を学ぶ必要があります。

 

この映画は26年という時間の中で、中国が自国の伝統文化を失っていく過程を描いていますね。文化の維持に努める人もいる一方で、文化は個人を抑圧してしまうこともあります。あなたの文化に対する意見をお聞かせください。

私にとって文化は曖昧な概念ではありません。日々の暮らしの中で生まれていくものです。また、自分が何者であるかを明確にするものでもあると思います。言語を例に挙げましょう。現在中国では、それぞれの省や地域の方言を保存しようという動きがあります。なぜなら、国語であれ方言であれ、言語はものの考え方や捉え方と深いつながりがあるからです。もちろんこの保存運動は、政治家や文化人、また経済を動かす人たちとの間に摩擦を生じます。ある特定の文化を守ろうとすると、そこには必ず摩擦が起きますからね。しかし、この方言を守ろうとする動きに関しては、たとえ衝突が起きたとしても私は賛成です。その過程で多様性が生まれますからね。

 

 

時間は脱構築の達人

 

映画の中でダオラー(ドン・ズージェン)は中国の文化を知らずに成長しています。現在の中国の若者をあなたはどう見ていらっしゃいますか?

それが今の流行なのでしょう。たとえば私の妹の子供たちのCDコレクションを見ると、北京語のものも、どの中国語のものも、ましてや中国の音楽さえありません。若者は彼ら自身でこの重要な問題について答えを探す必要があります。本当に今、前よりも自由なのか?と自分自身に問いかけて。また、現代の若い世代が抱えるジレンマは、片足を自由な世界に浸していることから生まれていると私は考えます。自由に旅行ができ、自由に国外にも行けますが、自由を本当に楽しむことはできていないのではないでしょうか。日々たくさんの制約を自らに課せていますからね。外見には自由に見えるかもしれません。しかし見えない部分ではどれだけの自由があるのでしょう。

 

時間の経過と、物語の展開とともにアスペクト比も変化します。アスペクト比はどんどん広がって行きますが、面白いことにそれと同時に孤独感が増していきますね。

アスペクト比の変化は映像の変化の歴史を反映させています。1990年代にはテレビは正方形に近い形でした。携帯電話の画面も同じです。当時の物と比べてみると大きな変化が起きたことが明らかです。そこでキャラクターのふれあい方や彼らの背景の中での配置を決めるときに、孤独を最大限に引き出したいと思ったので、フレームの幅が広がるにつれ、その中に映る人の数を少なくしていったのです。ですから人のつながりを強く感じられるところから、孤独や寂しさが大きくなっていく過程を見ることができるでしょう。

 

ウォルター・サレスの映画『ジャ・ジャンクー、フェンヤンの子』も時間の経過を題材にしています。時間の経過にどのような思いがありますか?

中国のここ10年か20年の劇的な変化は、他国では100年間に起こったことだと思います。大きな変化がそれほど早い期間に起こると、時間がまるで魔法使いのように感じてしまうものです。いろんなことが魔法のように現れては消えてしまいますから。たとえば昔私が旅行していたとき、車なんかほとんど見られませんでしたよ。自転車が人の交通手段でしたからね。車の登場は時間や空間の概念に対する人の考え方を劇的に変えてしまいました。そして今、世の中には新幹線や飛行機もあり、人々の時間や空間との関係性にさらなる変化を起こしています。時間は魔法使いと言うよりも、むしろ脱構築の達人と言ってもいいでしょう。なぜなら2014年の物語では、1999年に起こったことを脱構築します。それと同じように2025年の物語では、2014年に起こったことを脱構築するからです。ただそれは逆にも考えられます。それを踏まえると2014年で起こることは、2025年に起こることの種まき作業のようなものです。そういった観点から、私はいつも映画の中で時間の経過を1つのテーマとして描き、分析しているように思います。

 

 

テキスト & インタビュー by 岡本太陽

 

『山河ノスタルジア』 は2月12日からアメリカで限定公開。日本では4月23日から全国順次公開。