Interview

 
 
Place: New York

敗戦少年の抵抗

Nobuhiko Obayashi
アートカテゴリ:  Film, Movie

日本を代表する映画作家・大林宣彦が、ニューヨークのジャパン・ソサエティで開催された、アメリカ最大となる大林映画のレトロスペクティブ(2015年11月20日〜12月6日)を訪れた。彼の長編初監督作『ハウス』は、アメリカでもカルト的人気を誇っているが、ラインナップに並んだ『野ゆき山ゆき海べゆき』『はるか、ノスタルジィ』『北京的西瓜』といった、アメリカではあまり知られていない革新的な作品も、近年の国際情勢の波紋に刺激され、それらの持つ潜在性があらわになってきている。東アジア間の緊張や、西洋におけるテロ行為により、世界中が混沌とする中、大林氏が語ってくれた映画に込める願いや、人生を変えた戦後の体験は、これからの未来をどう生きるのか、私たちに深く想いをめぐらさせる。

 

 

戦争は終わらない

 

実は原爆投下の二週間前まで広島にいましてね。しかし当時僕の父は九州に駐留していたので、運が良かったのか広島の街が原爆で吹き飛んだときは父を訪れていました。原爆では、もちろん親戚も当時知っていた友人も亡くしました。

 

当然勝つと思っていた戦争で日本が負けたのは、僕が8才のとき。戦争という“死ぬか殺されるか”の運命の中、母と死ぬ覚悟もしました。でも敗戦が決まって、そんな戦争を大人たちはケロっと忘れてしまったわけなんです。

 

野ゆき山ゆき海べゆき © 1986 Toho Co., Ltd. / Nippon Television Network Corporation / VAP INC. All Rights Reserved.

日本が戦争に負けるまでは、僕は完全な軍国少年でした。戦争ごっこをして遊ぶのが一番楽しくて、大人になったらお国のために死ぬことが運命だと思っていました。そんな僕は、戦後の大人が何よりも信じられなくなりました。死ぬか殺されるかならまだわかるけれども、突然の平和に混乱して、きのうまで大切に扱っていた教科書のページをいきなり破いたり、墨を塗りたくったり。でもそれは、僕だけがそうなってしまったわけではなく、昭和10年から15年くらいまでに生まれた人はみんな同じなんですよ。

 

寺山修司も僕と同世代です。彼は「命を捨てるに値する祖国がなくなった」という詩を書いています。ミッキー・カーチスも同じかな。彼も「おれと戦争と音楽と」という自伝を出して、「僕から戦争を取り上げたら、僕はいないことと同じだ」と言っていますね。

 

僕の中では、昭和20年で昭和は終わりました。戦争前と戦争後が同じ昭和であるということが、まず考えられない。日本は特殊な事情で、敗戦を歩まず、いきなり終戦になってしまいましたが、戦争は終わらないものです。

 

そもそも8月15日は何の日でもないですよね。ポツダム宣言が受諾されたのは8月14日で、調印されたのは日本時間の9月2日です。8月15日は、天皇陛下による玉音放送が行われた日です。マッカーサーもその機会を利用して占領政策を進めました。しかしながら現実には9月5日まで北海道はソ連と戦争していた。そういった事実を日本人は他のどの国の人よりも知らされていない。

 

SADA © 1998 Shochiku Co., Ltd.

そしてこともあろうに、僕はその占領政策の申し子になってしまったんですね。チョコレートとチューインガムは象徴的ですが、戦争が終わった途端にアメリカ映画が入ってくるんですよ。それはもうめちゃくちゃ面白い。戦争中はもちろん日本映画しか観られませんからね。ところがそのアメリカ映画もGHQの占領政策の一環でした。つまりマッカーサーは、チョコレート、チューインガム、アメリカ映画で精神年齢12才の日本人を育てようとしたんです。

 

例えば、『風と共に去りぬ』はもうできていましたよ。しかし日本であの映画を観られたのは、1952年。日本の独立後なんですよ。占領政策の中ではあの映画は観られなかった。日本には、アメリカに奴隷制度があったことは教えてはいけませんからね。そうやって選ばれた映画だけが日本人に見せられて、アメリカはヒューマニスティックでフロンティアスピリットを持つ国だと浸透させられてきました。映画においても文明社会においても、戦勝国アメリカが素晴らしい、そしてそれに見習えということで日本は復興してきましたし、そのツケを実感しているのが僕ら世代です。

 

朝鮮戦争は僕たちにとっては、それはもうショックでした。ステーキなんか一生食べられないと思っていたら、いきなり我が家の食卓に出たんですから。進駐軍にもらったのかと思ったら、朝鮮戦争のせいだと。これが神武景気です。早く戦争は終わって欲しいと思っていたけれど、そのお陰でステーキが食べられている。戦争に負けても殺されず、隣の国の戦争で日本は復興する。「これはどういうことなんだ!?」と。

 

 

ふるさとを守る

 

日本の復興はスクラップ・アンド・ビルドによるものです。実は、戦後もまだ日本には山河が残っていたんですが、それを根こそぎ壊したのは日本人でした。だからますます日本人が信じられなくなりますよね。そして僕は、破壊されていない故郷だけは守ろうということで、「町まもり」映画を作り始めるんです。

 

はるか、ノスタルジィ © PSC

僕がファンタジーの力を用いるようになったのは、誰にも僕の想いが理解されないから。特別ファンタジーが好きだったわけではないんですよ。つまりファンタジーが成立するのは古い町で、そういう町を愛してもらおうというアプローチなんです。ファンタジーが脈を打つ町を愛してもらえば、そこを開発から守ることができるかもしれない、町の良さが残るかもしれないという賭けですね。それが僕を「ふるさとまもり」の作家にしていきました。

 

僕はたくさんのハリウッド映画を観てきていますが、当時のハリウッド映画は、実はアメリカ人によって作られた映画ではありませんでした。夢と自由のハリウッドは、第一次世界大戦で国を追われてきたヨーロッパ人たちが作ったものです。アメリカはそれをうまく利用したんですね。映画を通じて理想的なアメリカの姿を世界に見せることができるから。

 

当時フランク・キャプラがアメリカ映画の象徴でしたが、彼ですらアメリカ人ではありません。僕が観ていたものは、戦勝国のアメリカが作った映画ではなく、敗戦国のヨーロッパ人たちが作った映画であるとわかってきました。

 

青春デンデケデケデケ © PSC

だからハリウッド映画から見えてくるのは、傷ついた故郷なんです。独立戦争や南北戦争のせいで、アメリカ映画には戦争の闇がまとわりついていますから、多くの作品は、戦火の後の故郷をどうするかというテーマを含んでいます。それが僕の映画との共通点です。平和な日本の故郷ではなく、日本文化が失われた故郷、あるいは僕は経済戦争だと思っている高度経済成長期によって被害を受けた故郷を描くことで、傷ついた故郷を守ろうとしています。

 

何よりやはり「みんな死んでいったのに、どうして僕は生き残ってるんだ」と、僕自身が生きていることに怖れを抱いていますからね。生き残った人間は、戦争で死んでいった人たちのことを伝えなくてはいけません。だからこそ『時をかける少女』という少年少女の恋物語ですら、主演の原田知世の後ろには、 戦争で殺された人たちの影が見え隠れするんです。故郷にかつて生きていた人たち、そして無残にも命を奪われてしまった人たちを描くことが僕の使命です。

 

 

人生が1つの線になる

 

僕たち世代にとって3.11は、日本が歩んでしまった敗戦後のやり直しのチャンスだったんですよ。8.15(終戦の日)が3.11と僕の中ではシンクロします。敗戦国の中で大人になった僕らは、8.15以降の日本のあり方が間違いであったということを強く意識しています。そこで3.11を機に、もう一度ここから新たに発展していきたいという想いが、ここ数年の僕の映画作りには反映されています。

 

北京的西瓜 © PSC

また、3.11があったからこそ、ふるさと映画でやってきた僕の意思がより明快になってきた。寺山修二や阿久悠、立川談志など先に死んでいった仲間たちが、もし今も生きていたら何をやっていただろうという疑問も僕の中にるんです。だから、彼らがやっていたであろうことも一緒にやってやろうと思っています。

 

例えば「変わり者」と呼ばれていた談志がね、僕たちに泣きながら言ったことがあるんです。「僕みたいな敗戦少年が生きのびてさぁ、古典落語をやっているっていうのは、どう考えても薄気味悪いよなぁ。古典なんかやれるわけないだろう。日本ないんだぜ。もし俺が、一所懸命俺らしく生きようと思ったら、政治家になって沖縄に行って、シャベル持って核兵器の一つでも取り出すよ。そうすればようやく俺が生きていることが許されるんだ」とわんわん泣きましたよ。きっとそういう気持ちは他の人にはわからないでしょう。

 

また和田誠は、バーコードが裏表紙に入っている書籍にはイラストを描くことを嫌いました。これは僕たちにとっては赤紙ですからね。本を売るためだけならワッペンを付ければいいんですよ。裏表紙に規格があるということは、書棚の中に番号があるということに慣れさせるという国の方針なんですから。それが今度ようやくマイナンバー制度という形で出てきましたよね。僕らは当初からこれは「赤紙だ」と言っているんですよ。

 

ハウス © Courtesy of Janus Films

僕の映画はファンタジーだったので、甘い映画だとしか思われていなかったのですが、映画も土地も人々に愛され、うれしいことにそれらの映画の舞台となった尾道は破壊から免れました。『ハウス』ですら、実は誰にも理解されない敗戦少年のアイデンティティを秘めています。海外であの映画を上映すると、必ず「あのゴム風船のような爆弾はなんですか?」とたくさんの人が原爆に気付いてくれるんです。しかし日本ではそれに気づいてくれません。それが日本の現状です。

 

実は僕の映画には6回原爆が出ています。その意識はあまりないですよね。というのは「これは原爆だ」という明らかな描き方をしていないからなんです。今お話ししたことは、誰にも理解されない僕たちのせめてもの抵抗でした。ところが3.11以降にようやく僕たちのフィロソフィーを表に出せるようになり、それが理解され始めてきました。

 

僕はそのために生きてきましたからね。戦争中で僕たちは自粛を散々経験しています。戦争中に「戦争は嫌だ」と言ってしまったら、国家犯罪人になってしまいますから。今だってもし戦争が起こってしまったら、結局国家犯罪人になってしまうわけですよ。だから自粛される人の気持ちもよくわかります。けれど、それをやってしまったら、また元も子もないんですよ。

 

3.11を体験した人間としては、子供たちに同じ目にだけは遭わせるわけにはいかない。自分だけのことを考えたら、それは危ないことはしない方がいいですよ。だけど子供のことを考えたらね、僕らは先がそんなに長くないから、ここで俺たちが身を張って言うべきことは言わなきゃいけない。そのために今まで生き延びてきたんだろうって。

 

 

正気を描く

 

僕は正義というものが一番信じられません。だから僕は政治家にも運動家にもならなかった。それも実は敗戦少年のアイデンティティなんですよ。例えば日本の政治とアメリカの政治がぶつかると、そのうち勝った方の正義が正しかったということになります。それをこれまでに嫌というほど思い知らされてきましたから、結局政治というものは自分の都合でしかないんじゃないかと悟ったんです。あるいは権力を持った者の力でしかないと。僕たちが信じられるのは正気しかないんですよ。

 

転校生 © NTVTOHO

児童読み物作家の山中恒とは共通点が多く、これまで4本一緒に映画を作っています。『転校生』の基になった『おれがあいつであいつがおれで』が書かれたのは、女性が社会で活躍し始めたウーマンリブの時代でした。僕は女性が社会に出て、日本は女社会になって欲しいと思っていました。戦争というものは男がしてきたわけですからね。

 

ところがあの時代は「闘争型の女性」が社会に出ていた。そこで山中さんと、もう一度「男らしさ」や「女らしさ」というものを考えようとしたんです。実は原作では性が入れ替わる子たちは小学生なんですよ。つまり山中さんは、大人の男女の心理小説を児童文学にしたんです。

 

これは手塚治虫も同じで、もし彼の漫画を小説や実写映画にしたら子供っぽくて見るに耐えないものになってしまいます。しかし児童漫画というジャンルだから、子供っぽさを盾にとって正気を描こうとしていました。実は正気を描くということは、一般社会では子供っぽいことなんですよ。だから山中恒は児童文学を、手塚治は児童漫画を選びました。

 

戦争という狂気に抵抗できるのは正気だけで、芸術こそが人間の正気を表現できるんですよ。政治や宗教ですら、「我が政治」「君の正義は悪だ」と言います。それに対し芸術は、お互い違うけれども、違いを理解し合い、許し合って生きていこうという活動ですよね。しかし違うものは敵であるとみなす傾向にあるのが、政治や経済や宗教です。敵は潰した方が良いですからね。つまりはナンバーワンを願えば戦争になってしまうんですよ。でも芸術はオンリーワンを願います。

 

野のなななのか © PSC

そこでね、先輩映画監督の黒澤明が「僕らはプラカードは担がない」と言いました。僕の映画は僕のフィロソフィーの上に作られていますが、ひと言で「こういう映画ですよ」と示すプラカードは担いでいない。だからこそ混沌としている。けれど、混沌としているものをそのまま差し出すことが芸術なんです。

 

例えば、ゴッホの絵を一度見ただけで理解出来る人はどこにもいないでしょう。芸術というものは理解できないものだからです。でも何かが感じられる。何かが感じられると、理解されるまでに時間はかかってしまうかもしれないけれど、平和な方向に、正気の方向に人は動いて行く。

 

『この空の花 長岡花火物語』も『野のなななのか』も、おそらく3.11以前であれば誰にも見向きもされない作り方のはずです。ただ3.11が起こって、みんなが混沌としました。そして混沌とした状態の中で、混沌としたものを観たから、何もわからなくても何かが感じられた。だから「どうして感じるんだろう」と、観てくれた人それぞれが映画と対話してくれたんですよ。政治や宗教は演説ですよね。けれど芸術は対話です。だからあの2本の映画は、混沌としているけれども、混沌とした者同士の対話の機会になりました。

 

 

そして、また繋がる点と点

 

僕は3才の時に映画に出会って、映画館で映画を観る前に、映画を作るおもちゃと遊んで過ごしました。しかも楽器や映画の機材をいくら壊しても親には叱られなかったんですよ。今考えると彼らは子供の才能を殺すことは勿体ないと思ってくれて自由にさせてくれたんでしょうね。そうやって僕は映画も音楽も独学で学んで、代々継がれてきた医者の家系を継がず映画作家になりました。

 

異人たちとの夏 © ©1988 Shochiku Co.,Ltd.

8ミリカメラは当時ホームムービー用のものでした。でも「よし、これで映画を作ろう!」と決めました。例えば文字なら手紙もある、日記もある、もちろん小説や詩もあるし、エッセイだってある。映画だってたくさんの形式があって良いはずなのに、なぜか商業主義の映画界では2時間の劇映画と短編のドキュメンタリーしかなかった。だから僕はエジソンを師匠として、映画の発明されていない部分を8ミリで開拓してやろうと思ったんです。そうやって8ミリフィルムにこだわり続け、僕の作品を観てくれる人が増えると、16ミリでも映画を撮るようになりました。

 

僕は1965年に初めてアメリカに来ました。そしてたくさんの僕の8ミリや16ミリフィルム作品をハリウッドで上映していただきました。そうやってすでに世界に出ていましたから、あえて日本で映画を撮ろうとは思っていなかった。ところが僕の自主映画やコマーシャルが人気を博したので、長編初監督作品の『ハウス』を作ることになりました。映画会社に所属していなかった僕にとって、初めてのメジャーの仕事でしたから、メジャーで活躍していた監督たちが出来ないことをやろうと思いました。ただ、僕にとってはそれが古典的なハリウッド映画だったんですよ。

 

映画の撮影所には友人がたくさんいるんですが、当時彼らと話していると、ジョン・フォードやハワード・ホークス、イングマール・ベルイマンが良いと言っていました。でも僕が「けれど君たちの作っているものは全然違うね」と言うと、彼らは「いや、これは仕事だから」と答えたんです。そのとき初めて、仕事としての映画があると知り、驚きました。

 

理由 © 2004 WOWOW INC.

自分が一番好きなことが映画だと思っていたから、僕は仕事としてもの作りをすると考えたことがなかった。そこで僕は、仕事として映画を作らないようにしようと決意するんです。コマーシャルですら僕は仕事としてやったことはない。とにかくそれが大好きで、素晴らしいものだからやっていたんです。これをやっているときっと世の中は平和になるんだと願いながらね。僕の平和への願いが一番託せるのが映画だから。

 

日本映画の前にハリウッド映画がありました。3.11の前に9.11がありましたね。9.11が起こったからこそアメリカ映画も随分変わり、同じように3.11があって日本映画も変わってきている。世の中は不思議なものでうまく辻褄が合います。映画を「辻褄が合った夢」と言ったりするんですが、偶発的に起こっているように思える世の中のことも、なぜかきちんと辻褄が合うんですよ。

 

昔僕は、三島由紀夫に多大な影響を与えた、檀一雄の小説『花筺(はながたみ)』が好きで、40年ほど前にこれを映画化したいと思い、脚本にもしていました。そのとき檀さんは福岡の能古島にいらしゃったので、そこに行って檀さんに映画化の許可をいただきました。ただ、小説には物語の舞台となる場所が書かれていませんでした。しかし映画化するとなると、どこかで撮らなければならないので、「檀さん、これはどこなんですか?」と聞きました。すると彼は「唐津に行ってごらんなさい」とおっしゃったんですよ。

 

そこで佐賀県にある唐津に行ってみました。小説の中に出てくる具体的なものは何もありませんでしたが、唐津の気質や、街の凜とした姿が、檀一雄の純文学を支えていると感じました。当時はATG(日本アート・シアター・ギルド)があったので、自主映画として『花筺』を僕の最初の35ミリフィルムの作品にするつもりでした。ところが同じ時期に東宝から映画を依頼されたんです。

 

彼らが「大林さん、『花筺』だったら東宝の監督でも映画にできます」と言うものだから、娘のアイデアで『ハウス』をやることになったんですよ。そうやってコマーシャルを撮っていた監督が、メジャー映画を撮るという前代未聞の事態が起こって、日本の映画界が変わっていった。そして檀さんが亡くなるということもあり、いつか映画にしたいと思っていましたが、『花筺』の映画化は見送ることになりました。

 

唐津くんちを訪れる大林監督 © 唐津映画製作推進委員会

しかしなぜかこのところ唐津とのご縁が芽生えて、『花筺』の映画化が形になってきたんです。思えば、檀一雄が『花筺』を書いたのは、日中戦争が始まる前でした。一見無頼派と思われる小説ですが、戦争に行って殺されるくらいなら、自分の命くらい、自由に生きるか死ぬか決めさせてくれという、当時の若者たちの心の叫びが描かれています。そしてそのリアリティがまさに今出てきている。40年前にはこうはいかなかったはずです。今だからできる映画なんです。思い始めてから40年かかりましたが、こうやって辻褄が合っていくんですね。

 

 

テキスト&インタビュー by 岡本太陽

 

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