Interview

 
 
Place: New York

さわやかに破滅する女

Daihachi Yoshida
アートカテゴリ:  Film, Movie

悪いことをしている女は独特の艶(つや)やかさがある。日本でも話題になった吉田大八監督作品『紙の月』が、第14回ニューヨーク・アジア映画祭で北米プレミアを迎えた。映画の主人公・梨花(宮沢りえ)は、調和を乱さない社会の色に溶け込んでいた女性。その彼女が横領に手を染め始める。しかしそうやって社会から墜ちて行く彼女の姿は、自我を解放しているような清々しさと美しさに溢れているのだ。

 

映画の舞台は、セクシャル・ハラスメントやジェンダー・ハラスメントが日常的にあるバブル崩壊直後の1994年日本。家庭では夫に尽くし、職場の銀行では契約社員として真面目に働く梨花だったが、大学生・光太(池松壮亮)と出会ったことで、箍(たが)が外れたかのように自由と破滅の道をひた走る。自分の意志で誰も手の届かないところに、彼女は行こうとしているかのようだ。

 

『腑抜けども、悲しみの愛をみせろ』や『パーマネント野ばら』などこれまでの監督作品で、一癖も二癖もある女性たちを描いてきた吉田監督。決して彼女たちに素敵な結末が待っているわけではない。しかしどこか思いのままに生きている彼女たちの姿に快感を覚えてしまう。彼女たちは、女性が抑圧されていなければ生まれていない、今の世の中のリフレクション。男性優位の世の中に生きているからこそ、その型破りな女性たちは我々に窓の向こうにある世界を見せてくれるのだろう。

 

 

COOLはニューヨーク・アジア映画祭を訪れた吉田大八監督に『紙の月』について話を聞いた。

まず原作と映画の一番の違いは何ですか?

原作には横領したヒロインのモノローグがあるんですね。それ以外にも彼女の高校や大学生のときの友達や昔の彼氏が、横領した彼女のニュースを見て感じたことがモノローグになっていました。そしてみんなそれぞれにお金の問題を抱えている。いろんな人たちがお金と自分の関わりで人生を考えていくような小説です。でも僕はモノローグを主体にこの映画を作ろうとは思いませんでした。むしろヒロインにフォーカスして、銀行の中で横領が行われるサスペンスを物語が展開して行くためのエンジンにしたかったんです。実は小説の中には銀行の中の描写はあまりありません。そこで小林聡美さんが演じている隅と、大島優子さんが演じている相川を新しく作って、梨花の昔の知り合いは全部カットしました。そこが一番大きな違いです。

 

宮沢りえさんをキャスティングしたときのイメージと実際に演出されたときの印象は違いましたか?

だいたいこの女優さんに頼めばこれくらいの梨花になるだろうという予想を付けるんですが、何人かいた候補の中で、”宮沢りえがこの役をやる”というのが一番予想が付かなかったんです。もちろん彼女の舞台を観たりはしていましたが、正直女優としてのイメージはそれほど強くなかったんですね。そこで一番予想が付かないからこそやる気が出たというか。でも実際仕事をしてみると、彼女は僕の演出にフィットしたんです。僕は結構細かいんですが、いくら細かく言ってもそれをどんどん吸収して、予想以上の結果を返してくれました。彼女がいなければこの『紙の月』ではなかったですね。そういう意味では、彼女がこの映画の一番の幸運だったと思います。

 

『紙の月』は、どんどん運命が狂っていく女性の話ですが、どこか清々しさや開放感があります。なぜその要素がこの作品には相応しいと思われたのか、また重要だったのか教えて下さい。

いつも原作があるものを脚色するときには、最初に読んだときの読後感に忠実に作ろうと思っているんです。しかし今回原作の『紙の月』を読んで、その小説の中には描かれていなかったにも関わらず、主人公の梨花が走って何かを突破するというイメージが強く心に残りました。「どこに向かって走っているのかな?」って。でもたぶん目的地があるわけではなくて、何かを突き破って走っているだけなんですよね。彼女はどんどん破滅に向かって行くけれど、そこに向かって行けば行くほど解放されて行くんです。“さわやかに破滅する”という言葉をこの映画を作るときによく使っていたんですけど、それをキーワードにして、スタッフとキャストはこの映画に取り組みました。

 

梨花は銀行の金を横領してしまいます。それは法律的には悪いことですが、この映画ではそれがはっきり”悪”として描かれてなかったところがすごく面白いと思いました。どうしてそういう描き方になったのでしょうか?

僕は道徳の教材を作っているわけではないので、良い悪いを映画の中でジャッジする必要は全くないと思っています。むしろ悪いことをしているときほどこの映画ではスイートな音楽が流れます。ですから善悪をジャッジするよりも、彼女の気持ちのまま動いたことで何が起こって、その責任を彼女がどう引き受けるかが大事だったんです。

 

梨花にはすごく認められたいという意識が強くある印象を受けましたが、彼女のそういう部分をどう思われますか?

認められていなかったから走って行った、という見方は僕はしたくはなかったんですね。今どういう状況であろうが、彼女の本質みたいなものがあって、それが自由を求めることに繋がり、自由を求めた結果の責任を引き受けるだけの強さが彼女の中にあったということを描きたかったんです。それは、認められるか認められないかということは彼女にとって大事なことではないからです。

 

映画の中で意図されるように、お金はどこか幻や妄想のような面があります。それでもお金に執着しがちです。お金についてどう思われていますか?

梨花が若い男性と恋人同士になるけれども、その愛は本物なのか?また、彼女は銀行員として務めているけれども、銀行員として社会にいることが正しいのか?つまり本当か嘘かということを問題にする限りは絶対に自由になれない。ですからお金を本当だと思っていたらいつかは裏切られるし、それを嘘だと思ってたら何も始まらない。だから本当でも嘘でも同じことなんだと理解していることが大事なんです。

 

梨花、隅、そして相川はそれぞれに怖い部分を持っています。女性はみんな怖い部分を持っていると思われますか?

もちろんそう思っています。宮沢さんと小林さんが演じられたキャラクターは1人の女性の中にある違う側面なんです。でもそれだけではなく、大島優子さんが演じたキャラクターも全て女性の中には全部あると思っています。やはり普段は女性の方が怖い部分を表に出さないため、物語の流れの中でいざそれが現れたときによりパワフルになる気はするんです。それは僕の映画の中の女性に託している期待や希望みたいなものなんです。

 

吉田監督の作品は女性にフォーカスしたものが多いのですが、それはなぜですか?

僕は社会的により大きなプレッシャーを受けている分、女性の方が普段からより深く考えて生きていると思っているんですね。だから映画の中で何かを起こす人物としては男性よりも女性の方が適しているといつも思っていますし、女性の方が物語をより遠くまで運んでくれる気がします。

 

コマーシャル業界でお仕事をされていたせいか、映画の中にスピード感あります。観客を引きつける演出は必ず頭のどこかに置いてらっしゃるのでしょうか?

それは意識しているというよりは、20年間コマーシャルをやったせいだと思います。映画に比べるとテレビのコマーシャルは、すぐよそ見されてしまうので常に観ている人を引き付けなくてはいけない。そこで何か観客の気持ちを繋ぎ止め続けなきゃいけないという意識はたぶんどこかにあるんだと思います。今回で映画は5本目で、昔はずっと観客の興味を引っ張り続けなくてはいけないというある種の強迫観念があったんですけど、最近は緩めたり引っ張ったりというコントロールできるようになったというか。多少自分のペースでできるようになってきた気がします。

 

コマーシャルで長くお仕事をされていたので、映画に関しては時間を掛けて作りたい作品を選ぶことができたのではないかと思いますが、この企画の何が監督をやりたいと思わせたのでしょうか?

自分がその映画を観たいと思うかというところで決めました。普通に女性従業員が横領をするという話だけでは観に行かないかもしれません。そういうときに自分なりの切り口を見つけられるかどうかが重要です。梨花は破滅して行きますが、ただ転落して行くだけではなく、彼女の破滅をどれだけ開放的に描けるかに興味がありました。ニューヨークだから言うわけではないですが、原作を読んだときに、原作のトーンは全然違うんですが、スコセッシの『グッドフェローズ』のことを思い浮かべました。主人公が好きなことをやり続けて、最後の最後に仲間を全員裏切って、自分だけ生き延びて後悔しないという、酷い話だけどスカッとするというか。気持ちが良かったんですよね。結果的にそれとは違うトーンの映画にはなったんですが、まず自分の中でモチベーションを生むときに『グッドフェローズ』を思い出しました。

 

 

テキスト&インタビュー by 岡本太陽

 

第14回ニューヨーク・アジア映画祭オフィシャルウェブサイト