Interview

 
 
Place: New York, Tokyo

自信の尺度

Momoko Ando
アートカテゴリ:  Film

映画にとって上映時間は重要な要素のひとつ。それが、映画が広く一般に届くか、映画ファンのみに届くのかを左右することにもなるからだ。『0.5ミリ』という不思議なタイトルの付けられた安藤桃子監督待望の最新作は、上映時間196分という長編。何か壮大な叙事詩を想像してしまうような上映時間だが、これは介護ヘルパー・山岸サワ(安藤サクラ)が心を閉ざした老人たちに出会い、彼らを解放してゆく人情ドラマだ。

 

「“渥美清の寅さん”みたいに、“安藤サクラのサワ”みたいなことをやりたかった」と安藤監督は言う。サワに触れられた人生はどんどん暴かれ、彼女の残す足跡から現代日本が抱える問題がじわじわと浮かび上がって行く。その一方で、サワは自らのことを多くは語らない神秘の女。一体彼女はどこから来て、どこへ行こうとしているのか。始まりも終わりもぼんやりした輪の中で彼女はただ光を放っている。

 

196分間は確かに長いように思える。しかしサワの活躍はエキサイティングで心地良く、ふと時の流れる感覚さえ忘れさせてくれる。言うなれば196分間は映画監督・安藤桃子の自信。そして偏に我々は、安藤監督の本作に込める強い想いと、サワの眩しさの中に引き込まれて行ってしまう。まるでそこに時間など存在しないかのように。

 

 

COOLへの独占インタビューで、安藤桃子監督が今年のジャパン・カッツ!でワールドプレミアを迎えた新作映画『0.5ミリ』について語った。

 

 

監督2作目では時間という概念を取っ払うことに挑戦しました


『0.5ミリ』は高知県が舞台です。高知を舞台にした理由は何だったのでしょうか?

まず私はこの映画の原作になった小説も自分で書いていて、その中で吐き出したいことは全て吐き出し切っていました。これは必ず陥ることだと予想していましたが、映画化に対するモチベーションを上げるのに苦労していたんです。そんなときに父がエンジン01文化戦略会議のため高知県に足を運んでいて、高知の人や町並みを見た父が帰って来るなり「お前が撮りたい場所は高知県に間違いない」と言いました。小説は架空の町が舞台なんですが、実際にシナリオハンティングに高知県に行ってみると、私が思い描いていた町並みと人がそこにありました。私は海外生活が長かったんですけれど、高知県は日本にいないかのような感覚になる場所なんです。主人公サワの老人たちとのコミュニケーションの取り方はどことなく日本人離れしているところがあると思うんですけど、高知県にはサワがいっぱいいるんです。老若男女みんなサワみたいな。独特の文化が高知県にはあったので、高知じゃなければこの映画は撮れなかったと思います。


この映画の上映時間は196分です。どうしてこの形で作品を見せたかったのですか?

プロデューサーたちと通常の2時間台の作品にすることも検討しましたが、それにはたくさんのシーンを切ってしまう必要がありました。切れるところは実際にはあるんですよ。そこで短いバージョンもいくつか作ってみましたが、スタッフと見たところ余計に長く感じてしまったんです。映画って不思議で、1時間の作品でも死ぬ程長く感じるものってありますよね。時間はやっぱり感覚でしかなくて、楽しい時間はすぐ過ぎるし、私が楽しいと感じていたとしても、他の人が楽しいと思っているとは限らない。監督第2作目では時間という概念を取っ払うことに挑戦しました。

 

今回の映画は小説に忠実には作っていらっしゃいませんね。映画化にあたって新しく試みたことはありましたか?

小説の中で全部言葉で説明出来たことを、画で伝えるということがまず基本問題でした。だからこそ映画では、景色や土地の持つエネルギー、また光と影に焦点を置いています。例えば高知県に射す眩しい日差し、そしてそれがあるからこそくっきり浮かぶ影が、人の感情の陰陽に結びついていると思っています。それが映るだけで多くを説明する必要もないと思いますし、現実世界にはそういうものがたくさん溢れていますよね。あと、映画だからこその主人公の口から語られる長台詞というのを、どうしてもサワに持たせたいと思っていました。

 

 

あの中にはいろんなテーマがありますが、バトンタッチすることに大きな焦点を置いています


サワの老人との関わりが中心にはなっていますが、その他たくさんの要素がこの映画には詰まっていますね。

自分では全く介護映画だとは思っていなくて、介護問題もあれば、戦争や、若者についても語っている。いろんな立場の人がコミュニケーションをし合うような作品がすごく理想的で、映画ならそれが出来ると思っています。年齢や性別だけじゃなく、国籍が違えば見方も違うからそこで議論が生まれる、議論が生まれるからこそ、コミュニケーションが出来てコミュニティが生まれる。あの中にはいろんなテーマがありますが、バトンタッチをすることに大きな焦点を置いています。ひと言で老人と言ってもやはり私たち若い世代よりもいろんな経験をしている、それに加え日本では戦争を体験した世代はもうすぐいなくなってしまう時代が到来する。だからちゃんと受け継がれるべきものは受け継がなければいけないという焦りから『0.5ミリ』を書き始めたんです。

 

サワは社会から切り離されている老人を再び社会へ繋ぐような印象を受けました。その社会から孤立した老人を描きたいと思われたきっかけは何だったのですか?

私は祖母の介護を8年間在宅でやっていました。そのとき感じたことは、小さい頃から尊敬していた祖母がどんどん社会で生きられない存在になっていたということ。またそこに本人も卑下を感じ、更に孤立していき、それを家族は必死にどうにかしようとするけれど、やはり家族の負担は大きくなり、家庭崩壊に陥るくらい介護する側まで鬱状態に陥ってしまいました。自分の家庭内にそういうことが起きて、自分の知らない歴史や素晴らしい知識を持っている人たちが、蔑ろにされ生きていかなくてはいけないことに対して怒りを覚えました。そうすると街に出ても、今まで目に付かなかった、おじいちゃんおばあちゃんの存在に気付くようになったんです。話しかけると、電車の中とかでいっぱい昔話とか話してくれるんですよ。

 

津川雅彦さん扮する真壁義男が戦争を語るシーンはパワフルでしたね。

あそこだけは実際に私がインタビューした戦争体験者の方の言葉を使っています。そしてサワの質問は全部私の言葉です。あそこは一語一句どうしても切ることが出来ませんでした。しかもあそこはワンカットで撮りたかったんです。また、私には一般化したくないという気持ちがあります。老人、介護、戦争、若者、社会問題とかって言葉を聞けば理解した気になるような単語だと思うんです。「政治がさぁ」とか、「若者の自殺だね」とか、「コミュニケーション不足だよね」とか、そうやって一般化しているんです。“戦争”と言っても、真壁の世代が過去体験した戦争もあるし、この瞬間起きている戦争もある。もっと言えば今回描いた4人のおじいちゃんたちだけでも、それぞれに違う人生がある。それぞれに家族があってドラマがある人たちが、人を殺していて、それがとんでもない数起きているということを“戦争”とまとめているだけで、もっと個々に向き合うくらいの気持ちを持つことが大切だと思います。

 

主人公サワは正体が分からないミステリアスなキャラクターです。このどことなくぼんやりした主人公像というのは何かにインスパイアされたのですか?

サワは女神のような人なんですね、例えばマグダラのマリアのような。安藤サクラは私の妹で、彼女が生まれた頃から私のミューズで、そのミューズ感を映画で見せたかった。老人たちはサワに暴かれていくけれど、サワ自体はだんだんと仮面は剥がれていくものの、最後まで明らかにならない。それはファンタジックな存在にさせるためにはとても重要な要素だと思うし、観客の想像力を削ぎたくなかった。サワはちょっと強引な部分はあるけれど、あんな子に介護してもらいたいなとか、あんなヘルパーがいたら面白いなという理想の象徴です。

 

 

たとえ戦争を体験したことがない人でも、大切な人を亡くしたことがある人は想像して、一般化せずに受け止めることが出来ると思うんです

 

サクラさんは生まれたときからミューズだったとおっしゃられていましたが、彼女の女優としての魅力はなんでしょう?

彼女は、安藤サクラ個人の人生を繊細に感じ取って生きているからこそ、どんなものにも共感だったり共鳴出来るんだと思うんです。例えば、どこどこで戦争が起こっています、女性や子供も殺されています、というニュースを見て、別に自分には関係ないしとやり過ごす人もいれば、それに涙する人もいる。そこでどうしてそんな違いが生まれるかというと、自分の人生に重ね合わせることが出来るか出来ないかだと思うんです。たとえ戦争を体験したことがない人でも、大切な人を亡くしたことがある人は想像して、一般化せずに受け止めることが出来ると思うんです。女優ってそういう仕事だと思っています。時代も違ったり、いろんな立場にある人を演じなくてはいけない仕事をしている役者が大切にするべきところを彼女はちゃんと大事にして真摯に生きている。

 

 

サワはすーっと人の心に入り込んで行くような壁のない人だと感じました。人と人との距離感も物語の1つのテーマになっていますね。

『0.5ミリ』というタイトルの持っている意味の1つに心の尺度というものがあります。尺度というとまず学校で定規を使って1センチ、2センチと教えられますよね、そして自分で自由に行動出来る距離は年と伴に広がって行く。でもその反面人との距離感はどんどん複雑になって行くんです。そのときに心の尺度はどうやって測ったら良いのだろうと考えたら、1ミリの半分の丁度触れるか触れないかの0.5ミリ、体温は感じるかもしれないけれど痛くはない距離が特別だなと。そしてサワはスレスレのところを泳いでいる女みたいな感じです。

 

“0.5ミリ”には、「極限状態に追い込まれた人が他を突き動かす力」というニュアンスもあったと思うのですが。

人の気持ちが集まれば山をも動かすことが出来る、というところですよね。私は必ず映画のタイトルを明確にするものは入れるべきだと思ったんですね。でも実際のところ”0.5ミリ”ってたくさん意味があって、例えば映画を観終わったお客さんが「映画の中でこう言っているんだけれど、私はこういう意味だと思った」と次々と教えてくれるんです。私にはそれが答えだと思っています。小説のときからタイトルが『0.5ミリ』では全く予想が付かなくて分からないから、例えば『ヘルパー・サワの旅』とか分かりやすいタイトルにした方が良いんじゃないかという案もあったんですけど、観終わったら必然的にみんなタイトルの意味を考えているんです。

 

「『0.5ミリ』の意味って何?」ってよく聞かれるのでは?

必ず聞かれます。でもそれって公開したら逆にプラスになると思うんですよ。「観てみたら分かるよ」とか、「観ても私は分かんなかった」とか、何でも良いんですけど、そこから会話が生まれれば。最初は「心の尺度」と答えていたんですけど、みなさんいろんな答えを持って来てくれるので、全部正解だなと思っています。現場でも役者さんたちそれぞれ“0.5ミリ”の意味を考えて来ていて、坂田さんは「残りの人生をどう生きるか」という意味だと言ってくれました。面白いですよね。あと、これは編集中にドキュメンタリーを見ていて初めて知ったんですけど、零戦を開発した方の生涯の挑戦は機体の表面のジェラルミンの厚さを0.5ミリにすることだったそうなんです。

 

 

私自身の女性性を否定している限り、何かを超えられる作品は作れないだろうと思ったんです

 

老人も社会に居場所をなくしていると思いますが、インターネットやスマホの普及で、特に10代や20代の若い世代も内に内に入ってしまっている傾向にあると思います。映画の最後の方で焦点が老人から若者へとシフトしますよね。どうしてこの映画で若者のことを言及したかったのですか?

実はあそこは私がとても大切にしているところなんです。子供や若者というのは未来を担う立場にありますよね。彼らがこれからの世の中を作って行くと考えたら、そこを描かなくてはバトンタッチして輪として社会が繋がることが出来ないと思いました。古来より日本人は生の扉に一番近い子供たちと、死の扉に近い老人たちを最も神に近い存在として敬うことで、社会が平和に成り立つような考えを持っていました。そしてその両者を繋げるのは、真ん中にいる私とかサワの世代ですよね。あと日本で今問題になっているのが、20代の死因の半分が自殺だということ。先進国の中でそういう状態にあるのは日本だけなんだそうです。それって何なんだろうと考えると、もちろん一言では片付けられないけれど、コミュニケーションが希薄になっていることが大きな理由の1つだと思うんです。そういった側面を映画で表現することで、様々な世代が議論し合えるような環境が生まれることを心から望んでいます。

 

安藤さんの映画からはこれまでに映画で見たことない女性像が描かれます。その非常にユニークな視点はどうやって培われたと思いますか?

映画監督という職業自体、特に日本はまだ男尊女卑がある気がします。女に映画は撮れないと感じている人がまだまだ多いし、女性監督も増えたとはいえまだ多いとは言えないと思います。でも映画は老若男女が観るものだから、そこに違和感を持っていました。最初映画監督になりたいなと思ったときは、舐められたくなかったので、男性的な作品が撮りたかったんですよ、コーエン兄弟の作品のような。でも私自身経験を積んで行く中で、「ちょっと待てよ」と。私自身の女性性を否定している限り、何かを超えられる作品は作れないだろうと思ったんです。『0.5ミリ』に関しても女性監督だからこんなものを撮れるんだということは全く意識していなくて、なんならじいさんだろうが何だろうが全部私だと思っています。

 

 

text by 岡本太陽

©2013 ZERO PICTURES / REALPRODUCTS

 

『0.5ミリ』オフィシャル ウェブサイト

11月、有楽町スバル座ほか全国順次ロードショー