Interview

 
 
Place: New York

『壁』を越える

Hany Abu-Assad
アートカテゴリ:  Film

アメリカとメキシコの国境、インドとバングラデシュの国境、またブラジルの富裕層と貧困層の居住区を仕切る壁など、我々が生きる世界にはいくつもの壁がある。そんな壁の中でもヨルダン川西岸地区を囲む分離壁は、パレスチナ人とイスラエル人を分け隔てるだけでなく、パレスチナ人同士の行き来も不自由にしている。それでもなお壁の頂上に有刺鉄線が張られるまでは、それぞれの思いを抱え壁をよじ登り越えていく人たちがいた。『パラダイス・ナウ』で話題をさらい、第86回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたハニ・アブ・アサド監督の『オマールの壁』は、分離壁で囲まれたパレスチナの若者の暮らしや葛藤を映し出す。

 

パン職人の主人公オマール(アダム・バクリ)は、しばしば身の危険を冒しながらも、ヨルダン川西岸地区の分離壁を越えて恋心を抱くナディア(リーム・リューバニ)のもとに通っている。ところがイスラエル兵に暴行を受けたオマールは、ある晩幼なじみのタレクとアムジャドと共に、受けた屈辱の報復として検問所にいるイスラエル兵を攻撃し殺害してしまう。そしてイスラエル兵殺害容疑でイスラエル当局に捕まってしまうオマールは、解放する代わりに仲間を売るよう告げられる。

 

物語を通してパレスチナとイスラエルの政治的ジレンマが町のいたるところに漂い、登場人物たちの目にも映し出されているこの映画。しかしヨルダン川西岸地区の物語に対する人の期待を裏切るかのように、この傑作映画の中でハニ・アブ・アサドが切実に見せるのは人間の心の脆さ。どれほど愛や倫理を重んじていたとしても、人の心は移ろいやすいもの。善悪すら立場や状況で変わってしまうし、世界のどこにいても人の心の移ろいやすさは変わらない。けれどそうやって心が変化するからこそ人は他を受け入れ、結びつき、許すこともできるはず。人類にはまだ可能性はあるのか?オマールのように壁を越えて行くことができるのだろうか?この映画は我々にそう問いかける。

 

 

第51回ニューヨーク映画祭期間中にパレスチナ人監督ハニ・アブ・アサドに『オマールの壁』について聞いた。

プロダクションノートに「現実的かどうかよりも信じられるかどうかが大切だ」というあなたの言葉がありました。

信じられるかどうかには2つのことが大きく関わってくる。何よりもまず登場人物の背景や彼らの動機を理解すると、現実的ではなくともその行動を受け入れることができる。例えば『ゼロ・グラビティ』を思い出してみよう。ありえないようなことが次々と起こるけれど、人物のリアクションには嘘がないから信じられるんだ。しかしそれにも1つ問題がある。もしあの状況を体験したことがある人、もしくはその分野に詳しい人が観たら、あれは馬鹿馬鹿しく映ってしまうかもしれないということ。もし警察官が警察ものの映画を観たら「現実ではこんなことにはならない」と感じてしまうからね。そこで観客を信じさせるための2つの要素とは何か。それは共感と経験。率直に言うと、現実そのままの映画は今までに存在したことがない。みんな現実を自分なりに解釈して物語にしているからね。僕の映画の中でも現実的ではなくても信じられるところがある。人の葛藤を映像で見せているから。観客は実は現実的なものを見せられるよりも葛藤に共感できるものに真実味を見出すことができるんだ。もし現実をそのまま見せてしまったらきっとほとんど印象に残らない映画になってしまうだろうね。観ている側は全くイメージができないから。

 

パレスチナ人とイスラエル人の衝突が映画の中で描かれていますが、それに対するあなたの思いは?

この映画は、愛、友情、信頼そして裏切りがテーマになっている。パラノイアもある種テーマかもしれないね。世界のどこにいても人を信じることはものすごく大切。それはこれからもきっと変わらない。僕はそう思っている。僕のパレスチナに対する意見はとてもシンプルだよ。占領には強く反対している。けれど批判するために映画を作る必要はない。何を言いたいかわかるかな?明らさまに占領を批判する映画を作るよりも、その状況の中に生きる人を描く方が大切なんだ。

 

パレスチナとイスラエルの問題の根底には宗教があります。しかし『パラダイス・ナウ』に比べ、今回の作品ではあまり宗教については触れていませんね。今の若い世代に何か変化を見出していらっしゃるのでしょうか?

60年代に革命に参加した人たちの子供が今の若者たちでね。彼らは今前を見失っている。それはなぜかというと、これまで新しい革命、また左翼活動や非宗教を目指す人たちがみんな失敗してきたからなんだ。また困ったことに、彼らの親たちは子供を消費社会の餌食にしてしまった。だからそこに住む人が変わったというよりは、僕の彼らへの目線が変わってしまったんだろう。

 

『パラダイス・ナウ』と『オマールの壁』で描かれているように、あなたは復讐というテーマにも興味がありますね。事実、韓国映画の『復讐者に憐れみを』をリメイク予定だそうで。復讐のどういった部分に興味がありますか?

家庭や仕事や学校でも、恥をかかされて人を恨んでしまったことは誰にでもあると思う。だからといって実際に復讐する人はほとんどいない。現実にはやらないけれど、映画の中ではやってしまうし、やっていいんだ。そこで興味深いのは、アメリカ映画では復讐が良いものとして描かれ、それとは逆に東洋の映画ではより深く復讐というものを見つめていること。たとえば東洋の映画では、復讐をしてしまうことの方が苦しいに違いないけれど、復讐に溺れ結局やってしまう。そうやって一度は落ち着きを取り戻すけれど、しばらくするとまた復讐に手を染めてしまうという描き方がなされているんだ。だから東洋の映画は面白い。復讐に対するそういうアプローチもあれば、アメリカみたいにシンプルに復讐を賛美する文化もあるから、復讐に対する僕なりの答えを見つけたいと思っているよ。なぜ復讐したいという気持ちが芽生えるのか、そしてその気持ちとの付き合い方なんかを探りながら。

 

今アメリカ映画の話が少し出たのでお聞きしたいのですが、この映画の中にも『ゴッドファーザー』やブラッド・ピット、スパイダーマンなど、アメリカ映画を象徴するものが会話の中に出てきますね。もしそれらがなければ時代を超越した作品にもなりえたと思いますが、なぜあえてそれらを登場させたのでしょうか?

僕はそれでもこの映画は時代を超越できると思っているよ。それらはすべて時代も違うし、ポップカルチャーの産物だからね。僕らはみんなポップカルチャーの犠牲になっているから、アートが人を真似しているのか、はたまた人がアートを真似しているのかわからなくなってしまっているんだ。だからこの映画ではそういった「今らしさ」も見せたかった。誰が誰を真似しているのかわからないからね。それにこの映画のようにみんなが知っているものを突然登場させると観客に緊張感を与えることができるんだ。映画というフィクションを観ているけれど、急に僕らの実際の暮らしを観ているような気持ちになってしまうからね。

 

この映画には、パレスチナとイスラエルの問題は非暴力で解決されるべきだというメッセージがあるように思いました。どうしてこのような物語になったのでしょうか、またそういったメッセージを入れるに至ったきっかけはあったのでしょうか?

正直この映画が大きな政治的変化を起こせるかはわからない。けれど変わるために何かしたいかと聞かれたら、はっきり「イエス」と答えるよ。僕は変化を求めているし、もっとたくさんの味方が必要だよ。占領をやめさせるため、また平等な世の中になるためには世界中が変化を願う必要があるからね。白人と黒人、ユダヤ人とユダヤ人以外、また同じイスラム教やキリスト教の中で区別することなく平等を手に入れるためには、みんなが力を合わせなくてはいけない。もちろんこの映画はそういった僕の意思が反映されているし、この映画に影響を受ける人もいるかもしれないけれど、もしかしたらそれは夢物語で終わってしまうかもしれない。どうなるかはわからないよ。けれどやはりお金で解決したくはないし、血も流すことなく解決できたらと思っているよ。

 

ジャ・ジャンクーの『罪の手ざわり』は中国で暴力が増加傾向にあるさまを辛らつに描いていました。暴力は不満を満たす直接的な手段だと思いますが、それをやるかやらないかは自分次第です。中国とイスラエルの状況は全く異なりますが、パレスチナ人とイスラエル人の間には不満が募っています。結局暴力を選んでしまうという状況を見つめる中で何か発見はありましたか?

僕も暴力は選択肢だと思っている。暴力が自分を守る唯一の手段だと思わされてしまうこともあるけれど、それが選択であろうと強制的にやらされるものであろうと、目の前のことから目を背けることには変わりはない。たとえ暴力を行使して勝っても、それによる代償は必ずある。占領下で生きる人々が暴力を行使して占領者に打ち勝ったとしても、そうやって勝った社会は何かしらの代償を払わなくてはいけない。暴力には必ず犠牲が付きまとうんだ。

 

今日の世の中で非暴力を掲げるムーブメントがたくさん起こっています。人類に信じていることはありますか?

すべての人間にある価値かな。文化の違いはあるけれど、それぞれの文化の価値は同じ。文化というものはそもそも違って当然なんだ。たとえば友好の証に握手を求める文化もあれば、キスをする文化もある。だからといって人間の価値は変わらない。本当はみんな平和を望んでいるけれど、住んでいる環境が欲を肥大させてしまうことがある。だから僕は人類が生き残っていくためにはそれをどうにか変えていかなくてはいけないと思っている。みんな本当は一緒であるはずなのに、消費社会が地球の文化に優劣を付けているんだ。

 

オマールが壁を何度も何度も登ろうとするけれど、登ることができず人の助けを借りるシーンがありますね。人は助け合うことを学ぶ必要があると感じました。

僕はポジティブな人間だよ。もう無理だ、モチベーションもないし、やりたいこともない、力も出ないというときは誰にでもあると思う。もうおしまいだと思ってしまうかもしれない。そういうとき、そこからまた這い上がるには知恵が必要。映画の中でオマールは、おじいさんの知恵を借りて立ち直る。ああいった人生の比喩表現が好きなんだ。

 

あなたはキャラクターを白か黒かではなく、グレーで描いていると思います。人の複雑な感情は何かに必ず影響を受けますし、環境や状況によってそれが変化するはずです。たとえばグレーが明るい背景の上にあると暗めに見え、暗い背景上では明るめに見えるというように。

どんな社会でも、ものごとを白黒分けてしまうものは必ず大きな失敗をしてしまう。ファシズムがまさにそう。ファシズムの社会では、誰が善で誰が悪なのかを完全に分けて考えるからね。けれど僕は誰の中にも善悪は存在していると思う。だから良いグループや悪いグループは存在しないんだ。きっと東洋の文化はそういった人間の本質を理解していると思うし、敗者の立場になったことのある文化もそういったことを理解しているはず。なぜなら負けを経験すると、人はグレーの部分が見えるようになって、世の中がどう動いているのかを学ぶことができから。残念ながら、今の西洋文化圏は権力を保持するためにものごとを白か黒かで見なくてはいけないけれど。

 

 

テキスト&インタビュー by 岡本太陽

写真 by Adopt Films

 

『オマールの壁』は2016年4月16日(土)より全国順次公開