Interview

 
 
Place: New York

夢でも現実でもない

Kenji Fukuma
アートカテゴリ:  Film

詩人で映画監督の福間健二監督最新作『あるいは佐々木ユキ』の二十歳の主人公ユキ(小原早織)は、どこかふらふらと彷徨い歩いている印象を与える。行方の分からない父がかつて言った「生きていればいい」という言葉が胸で鳴り響く中、ユキは霧に包まれた方角に何か未知の存在の鼓動を感じ始めている。今なお続く経済不況と政治的不安の中で、思春期を過ぎた若者が大人になるということはどういうものなのか。映画は、詩やお伽話、またダンスといった表現を織り込み、大人になる一歩手前のぼんやりした想い、また突然意思や主義が芽吹くことへの戸惑いを、儚げに、そして奥ゆかしく演出している。これは夢でも現実でもない物語。映画という媒体を漂う理想郷。そこに迷い込んでしまったとき初めて、神秘の果実が煌めく。

 

 

COOLは、ニューヨーク大学での『あるいは佐々木ユキ』の上映のため、35年振りにニューヨークを訪れた福間健二監督にインタビューを行った。

冒頭で詩人の文月悠光さんが、「今の子供は電車やバスの中で音楽聴いたり、携帯電話いじったりして、自分の世界に閉じこもっている」と言います。福間さんご自身は現代の若者をどのように見てらっしゃいますか?

今の若者はどこか世界に向って行くことが出来ずにいると一般的な傾向として語られています。でも僕は、外国を見たい、いろんな経験をしてみたいと思ってる若者は、やっぱりいると思うんです。文月悠光さんは、中学生の頃から詩人で、天才型として育っているのですが、この映画では、肯定も否定もせず、そうではない若者たちにとって大人になるとはどういうことなのか表現したいと思っていました。

 

福間さんが十代、二十代の頃の周りの若者の様子はどういうものだったんでしょうか?

1960年代後半から70年頃までは、革命の空気が日本にあり、今までの日本を否定して新しいものを作りたいと若者は感じていました。若者はみんなその空気に飲み込まれてしまったんだと思います。そして70年代に入って日本は壁にぶつかって、もしかしたらそれ以降ずっと壁にぶつかったままなのかもしれない。若者がこの社会を変えられるなんて、夢だったのかもしれないけれど、その夢を信じる人たちがたくさんいました。


福間さんが表現に魅せられた理由は何だったのでしょうか?

僕らが若かった頃は、社会がまだ年功序列的で、レールに乗っかった生き方をするのが嫌でしょうがなかったんですよ。だからそうじゃない生き方を探ろうというムーブメントがあって、そこで詩や映画…、映画の方が分かりやすいかな。映画館の暗闇の中に一人でいると、そこで自分の可能性を想像することが出来るんですよね。そうやって表現にのめり込んで行った気がしますね。

 

映画への興味は、若松孝二監督の影響が特に大きいのでしょうか?

若松さんには限らないのですが、1960年代のサブカルチャーが出て来るような時期だったので、そういう新しい文化に乗って行きたいと思って、その洗礼を受けました。でも世の中が基準としているようなことから外れて行ってしまうことに不安も覚えるわけですよね。でも映画館の中ではそれが肯定される。若松さんの場合は、一番分かりやすい例で、「世の中で偉そうにしてるやつらは皆ぶっ殺してやる」みたいな感じ。僕はそういうところが良いなと思ったんですよね。大島渚のような他の日本映画の監督もみんなアウトローで、あるいは不良的で、映画はそれが格好良いという場所だったんです。

 

『あるいは佐々木ユキ』の中で、「私は孤児院で生まれた」というアゴタ・クリストフの『郵便受』の一節が出て来ましたが、その中の“孤児”や“孤児院”がこの映画の中で象徴しているものは何なのですか?

今の日本の若者たちは、親に頼ってしまっているし、親の意見に反対して生きるということもない。それが彼らが自由になれない理由なのかもしれない。そうすると、「孤児だったら良かった」という気持ちが出て来るんじゃないかと思ってね。主人公ユキの場合は、孤児ではないけれど、親から放り出された存在で、でも孤児だったら父親や母親のことを心配しなくて良いだろうに、孤児院で育ったらどんな私になっていたんだろう、という気持ちを途中から登場するユキB(川野真樹子)で表しているんです。アゴタ・クリストフのあの詩を最初読むときはユキA(主人公)の声を、次に読むときはユキBの声を使っているんです。

 

ユキBは「あなたに足りないものを教えるためにあなたに近づいた」と言いますが、ユキBにあって、ユキAにないものとは何なのでしょうか?

 

逆に言うと、ユキBにないものはユキAの恵まれている環境だったりするんですね。恵まれているユキAには、現実の本当の怖さはまだ分からない。私は、ユキBは怖い思いをして生きてきた存在であり、経験の差の象徴として描きました。

 

ユキBが生まれた背景をもう少し詳しく教えていただけますか?

今の日本映画では意外とユキB的な存在を描いてきているように思います。環境的に貧しかったり、生活が厳しかったり、彼らの背景には何か不幸な生い立ちがあったという描き方。でも僕は、それはヌーベルバーグ以前の、50年代までの自然主義的な、環境が悪い、社会が悪い、というような描かれ方だと思うんです。でもそんなこと関係なく誰でも強く生きていけるとしたらそうはいかない部分があります。例えば、僕とユキAがある程度近い存在であるとすると、僕自身に対するユキB的なものからの批判でもあるんです。もっと言うと、今まではリストカットする若者や、自閉的な若者を主人公にする傾向にあったんですね。その方が分かりやすいですから。

 

英雄視しやすいですよね。

でもそれは古い気がするんですよね。もし、環境が悪いからこんな人間を作ってしまった、という説明をしてしまったら、人間が自分で運命を切り開いて行く力なんて無くなってしまうんですよ。でもそういう映画は意外とたくさんあります。

 

「今までとは違うベクトルが生まれて来るのは、意欲が生まれて来る証拠」、という台詞がありますが、どうして意欲についての会話を入れられたのでしょうか?

自分なりに何かをしたい、というのが意欲なんですが、あそこは千石先生のアドリブでした。彼が、自分の中で葛藤が生まれるのは自分が何かをしたいと思うからだ、ということを話してくれたんです。驚かれるかもしれないけれど、実はユキの中で分裂したものが存在しているのは、『ブラック・スワン』に影響を受けているんです。『ブラック・スワン』は、若い女の子がもう一人の自分に出会う話だと思うんですが、悪戯にショッキングに、ダンスのシーンでもわざと痛々しく作っている。でもそういう描き方をしなくても、誰だって『ブラック・スワン』のような状況には陥るし、もう一人の自分にぶつかるんですよね。

 

『ブラック・スワン』もどこかお伽話みたいな面がありましたよね。

『ブラック・スワン』のどぎつくないないやつをやりたかったんです。もともと小原早織さんが、ストリートダンスが上手かったので、踊れることは知っていました。ユキB役の川野真樹子さんもバレエをやっていて、でも『ブラック・スワン』のヒロインみたいに一流を目指して特訓しているというわけではないんですね。でも踊るということがどこか解放に繋がるからやっているんです。

 

「主義は少しずつ変わっていく。じゃないと止まってしまう」という台詞がありますね。福間さんご自身の主義がどう変わって、どうやってそういう考えに今至っているのでしょうか。

積み重ねて来た伝統というものがありますよね。詩を書いてきたここ40年くらいは、とにかくそれに反抗する方が面白い、何かの言いなりになってはダメだ、という主義を持っていたと思うんですよ。 だけど、それだけで良いんだろうかという気持ちも芽生えて来たんですね。やっぱりごく普通に生きている人たちの価値を大切にしなくてはいけない。日本でははっきりした主張をしませんよね。日本人に自分の主義がないのではないかと思ってね。何が良いか悪いか考えないままやっている。僕は主義を持って生きろという気持ちを抱えて来たけれど、ただそういう風に簡単に言えるのだろうか。主義について考えると、主義を持っているから偉いわけではないという気付きに至ると思うんですよ。自分の主義を持ってそれに基づいて行動して良かったと思うけれど、そうではない人の中にも賢くて深いものがあるという気付きがあった。物事には必ずいろんな側面があります。そういう考えが若いときに出来れば良いんだけど、なかなか難しいんですよね。だからいろんな側面が見えて来ること、きのうまで気付かなかったことが見えて来ることが、主義が変化していくことに繋がって行くのかな。

 

物事にはいろんな側面がある、ということに気付くことは、吉野晶さん扮する千春が映画の中で言う「何が起こっても慌てなくても良い」ということにも繋がって来ますよね。

90年代頃は、文化や思想の面ではポストモダン以降と言われています。でもポストモダン以降の新しい考えとされていたものは、日本の場合、西洋の文化をそのまま受け継いでいるようなところがあって、自分で考えていることにはなっていなかったかもしれない。でもそういうことに気付かないで、「ああこれが新しい考え方なんだ」と思った人もいるかもしれない。そういうときに、新しい考え方の中にもいろんな側面が見えていればあまり慌てる必要はないんですよね。そういう意味では、ユキには一面的な考えに囚われない二十歳の女の子になって欲しいと思いました。ユキは、小原早織さんそのものを投影しているんですね。映画の中に出て来る“佐々木ユキ主義”は彼女のものだし、彼女の持っているものがすごく魅力的だったんです。非常に面白い子だと思いました。

 

「生きていればいい」という言葉をユキはずっと自問していますよね。福間さんにとってこのことを考えるきっかけになったことは何だったのでしょうか?

僕の父はもう亡くなって、母は施設に入っていたんですが、今病気がひどくなって今入院しているんですね。老人介護をテーマにして映画を作っている人もいるけれど、どうすればこの老人たちに対して良い態度を取ったと言えるのかというと、やっぱり生きていれば良いという以上のものは無いんですよね。僕の詩論集に「詩は生きている」というタイトルものもがあるんですが、詩とは何であるかを語らず、詩がまだ死んでいなくて、いろいろ変化していく可能性を持っているということが生きているということである、と言っているんですね。だから「生きていればいい」もそのテーマの一つだと思うんです。そして「生きていればいい」という言葉を考えると、必ず生きているということはどういうことなんだという問いが出て来ますよね。それに関しても、映画の中で千石先生が上手く言ってくれたと思うんですね。僕の映画はそれほどシナリオがしっかりしたものではなくて、その場で出て来たものを出来るだけ掬い上げたいと思っているんです。「本当に生きているだけで良いんですか?」とユキが問いを投げれば、誰かがそれに対してレスポンスする。観ている人も同時にそれについて考えてくれればと。

 

その場で出て来たものを掬い上げたいとおっしゃられてましたが、アクシデントと取れるものを残されているなと感じました。例えば、ボクシングの振りをしているシーンで、拳同士がぶつかったり、ユキが食事をしているときに、箸が茶碗の上から転がって落ちたりとか。そういうものを残すというのはご自身のどういう執着から来ているんでしょうか?

表現をコントロールしようとしている意識を超えてくるものが出て来ることが面白いと思うんですよ。今言われたシーンは全部そうで、例えば箸が落ちるところは、箸を落としてくれと言っていたわけではないんです。あのテイクはもう少しユキの顔を見せたかったのですが、自然と箸が落ちて、箸に付いている一粒の飯粒を食べるというのはもう一度出来ないんですよね。だからちょっと顔の見え方が足りないと感じつつも、あの後は同じシーンを撮影しなかったんです。長いカルタのシーンがありますよね。あれは、二人でカルタをやったらどうなるんだろうっていうことで始まったんですけど、あれを二回やってしまうと次は全然違うものになってしまうので、ずっとカメラを回してもらって、そのまま撮ってしまったんです。彼女たちが台本に書いてあることを演じるのではなく、役らしさがよく出ていました。そしてそれを全部使えるように全体を編集しようと心掛けました。僕は最初のテイクで起こることをすごく大事にしています。人生もやり直しが利かないから面白いと思うんです。

 

『あるいは佐々木ユキ』のキャラクターは、みんな報酬としてお金を渡されると断りますよね。そこには福間さんのどういう思いが込められているのでしょうか?

この映画のお伽話の側面はそこに表れているんです。やっぱり欲張ってはいけないというのが、最後に出て来ることなのかな。この社会は経済的に儲けを出そうとしている人たちに作られている面があって、それに乗ってしまってはいけないのではと。ユキが三つのスプーンから一つを選ぶシーンがありますが、あそこで一番小さいものを選べることが大切だと思いますし、お伽話には必ずそういうことが書いてあるんですよね。大きいものを選んだ人は不幸な目に遭うようになっているんですよ。

 

白黒のシーンがすごく不思議で印象に残りました。あのシーンはどういう意味があるんですか?

ユキBやKというキャラクターが出て来る部分は実は夢なんです。そこで現実とは違う時間の流れをどういう風に見せるかを工夫しました。ダンスのシーンは昔のフィルム映画のように少しコマを落としてみたり、夢の感覚と初期の映画の感触がシンクロしたような描き方をしています。例えばよくある夢のサインは、昔の日本映画だと画面がぼやけているんですが、僕は現実と夢が区別されること自体あまり面白くないと思うんですね。それでも、夢であるサインを置いておくというか。例えばユキBとKの足の甲に同じサインがあるのですが、彼らはユキの頭の中から生み出された存在であるということを表現したかったんです。でもそれがまるで現実のように存在している。みなさんがあれをどういう風に受け止めてくれるかとても気になります。

 

人は意識と無意識を区別したがりますけど、意識の方が強い時間の中にも必ず無意識は入り込んでいるし、またその逆も同じで、そのことを『あるいは佐々木ユキ』は上手く表現しているなと思いました。

やっぱり夢と現実を区別したくないという気持ちがあるんですよね。これは夢だから、これは頭の中で思い描いたことだから、実際に起こっていることとは違うんだ、と思いたくないんです。例えばキリスト教の戒律では、頭の中で厭らしいことを考えただけで罪となっていたりしますよね。思ったことと、やったことが簡単に区別出来ないことがあると思うんです。そして映画は、夢と現実が区別されない場所なんです。

 

ユキが「子供の頃も寂しかった、フランスでも寂しかった」と言いますよね。またユキ以外の他のキャラクターも孤独を抱えているという印象を受けました。詩人と孤独というものの関係はあるのでしょうか?

僕自身は、映画も作っているくらいだから、人間関係がそれほど負担にはならないんですが、詩を書いている人の中にはまずその要素がある方もいますよね。日本の若者たちに顕著に見受けられる、群れたり、集団でいないと不安になるような精神ではなく、集団でいなくても大丈夫だというものがないと詩には出会えないと思いますね。一人でいる状況のときに、一人じゃないと思えるというか。表現ってそういうことかな。すごく孤独な場所に行って、一人で生きているわけじゃないって思える。僕はそういう風に感じるのが好きですね。浜辺とか川縁とかで詩を書くのが好きなんですけど、そういうところに一人でポツンといるということが表現の始まりみたいな気がします。誰かと繋がりたいっていう気持ちも、端っこにいるから芽生えるんだと思います。

 

 

text & portrait photos by 岡本太陽

stills by Tough Mama

『あるいは佐々木ユキ』公式ブログ